遠い記憶

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ずぶぬれの、いかにもくたびれた様子で呆然と店の看板を見つめている奏を目に留めたのは、タクシーから降りて路地へと歩いてきた青年だった。 すらりとした体型で、ロゴを見ればすぐ有名ブランドとわかるジーンズとTシャツを身に着けている。 青年は茶色く染めた髪をさらりとかきあげると、彼女にばれぬよう一枚、スマートフォンで写真を撮って送信した。 すぐに折り返しの電話がかかってきた。 「虎太郎(こたろう)ちゃん、どうしたの?」 鼻にかかった癖のある声は、虎太郎の所属するホストクラブ【ハニービート】のオーナー、ミナからだ。 「おはようございます、オーナー。  突然すみません。見ての通り、店の前に見知らぬ子が突っ立ってるんですけど……。  無視して通り過ぎていいですか?」 普段なら気にも留めずに通り過ぎるのだが、ここのところ、店内でストーカー問題に悩まされているホストがいるので、虎太郎も慎重になっているのだ。 「虎太郎ちゃんが記憶にないっていうなら、店に来たことのない子よね。  迷子かなんかじゃないの? 刺激しないようにそっと――  わっ。蓮登何すんのよっ」 突然、電話が切れた。 目を丸くするのは虎太郎の方だ。 蓮登と言えば、ハニービートのぶっちぎりのナンバーワンホスト。 格別に整った容姿に加え、静かな佇まいと穏やかな物腰、ミステリアスな雰囲気を保ちながらも同時に巧みなトーク技術を持っている。 客に対してのみならず、他のホストやスタッフに対しても物腰が柔らかで、誰からも一目置かれている存在だ。 そんな蓮登がなぜプライベートな時間にオーナーと一緒に居るのか。 明らかに日本の整形技術の腕を駆使した、オーナーの美しい姿が脳裏を過る。 慎重175センチ、筋肉が程よくついた身体にたわわに実る胸。 いつも、隙の無いメイクとヘアスタイル。 オーナーの正体を知らないものは皆、その姿に釘付けになってしまう。 峰不二子が実在したらこんな姿なのかと思わせるほど、何もかもが完璧。 ――だけど、ミナは男――つまり、オカマだ。 蓮登だってそれはよく心得ているに違いない。
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