1992人が本棚に入れています
本棚に追加
/652ページ
「ただいま」
午後11時。玄関ドアを開けて暗い室内に向けて、恵(めぐむ)は呟く。
しかし返ってくる言葉はない。
真聡(まさと)が就職して半年経つ。
本社機能が首都圏にあるため、就職と同時に真聡は東京の実家へと戻った。
「はあ、疲れた……」
恵は最近独り言が増えたと思う。
職場では同僚と言葉は交わすが、帰宅すると一人きりだ。
真聡と半同棲していた時は、疲れていても真聡の可愛い顔を見るだけで癒やされていたから、こんな言葉も溢れなかった。
遠距離恋愛になって半年。
真聡のいない生活にも少しだけ慣れてきた。
真聡の荷物は既になく匂いも消えた。
真聡とここで生活していたことが夢だったように思える。
帰宅後は窓を開け必ず空気を入れ替える。
9月に入ったとはいえ、まだ夜の湿気はうっとうしい。
その間にスーツを脱ぎ、シャワーを浴びる。
湯船に浸かった方が疲れは取れるが、早く寛ぎたい。
急いで汗を流し、風呂場を出る。
窓を閉め、クーラーの電源を入れる。
涼風が吹き出して、その心地よさにしばし身を委ねる。
「ふう」
ビールと軽いつまみを買ってきた。
いつも帰宅が遅い恵の夕飯はこれだけだ。
深夜に重い食事は体が受け付けない。
風呂上がりのアルコールを一口体内に入れて、ようやく人心地つく。
「真聡、もう帰ってきたかな……」
真聡は大手商社に就職した。
入社後3ヶ月は研修期間で様々な部署を経験し、先月、食品開発部という部署に配属されるらしい。
日本製品を欧州に売り込むためのパイプを作る担当となり、いきなりフランスを任されたという。
早速フランス語会話教室に通い出したと、恵は真聡に教えてもらった。
最初のコメントを投稿しよう!