第5章 遠い囁き

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「ただいま」  午後11時。玄関ドアを開けて暗い室内に向けて、恵(めぐむ)は呟く。  しかし返ってくる言葉はない。  真聡(まさと)が就職して半年経つ。  本社機能が首都圏にあるため、就職と同時に真聡は東京の実家へと戻った。 「はあ、疲れた……」  恵は最近独り言が増えたと思う。  職場では同僚と言葉は交わすが、帰宅すると一人きりだ。  真聡と半同棲していた時は、疲れていても真聡の可愛い顔を見るだけで癒やされていたから、こんな言葉も溢れなかった。  遠距離恋愛になって半年。  真聡のいない生活にも少しだけ慣れてきた。  真聡の荷物は既になく匂いも消えた。  真聡とここで生活していたことが夢だったように思える。  帰宅後は窓を開け必ず空気を入れ替える。  9月に入ったとはいえ、まだ夜の湿気はうっとうしい。  その間にスーツを脱ぎ、シャワーを浴びる。  湯船に浸かった方が疲れは取れるが、早く寛ぎたい。  急いで汗を流し、風呂場を出る。  窓を閉め、クーラーの電源を入れる。  涼風が吹き出して、その心地よさにしばし身を委ねる。  「ふう」  ビールと軽いつまみを買ってきた。  いつも帰宅が遅い恵の夕飯はこれだけだ。  深夜に重い食事は体が受け付けない。  風呂上がりのアルコールを一口体内に入れて、ようやく人心地つく。  「真聡、もう帰ってきたかな……」  真聡は大手商社に就職した。  入社後3ヶ月は研修期間で様々な部署を経験し、先月、食品開発部という部署に配属されるらしい。  日本製品を欧州に売り込むためのパイプを作る担当となり、いきなりフランスを任されたという。  早速フランス語会話教室に通い出したと、恵は真聡に教えてもらった。
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