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家から2分ほどの畑に無人の野菜販売所がある。
屋根付きの台の上にいろいろな種類の野菜が並んでいて、『全品100円』という手書きの看板の横には赤い郵便ポスト型の貯金箱が置いてある。
初めて見た時、都会育ちの希歩はずいぶん珍しがった。
すぐに毎日通うようになったのは、徒歩で野菜が買える便利さからだろう。
うちから一番近いスーパーは、自転車で40分もかかるから。
今朝も希歩と2人で散歩がてら野菜を買いに行こうと誘ったら、洗濯機が終了のブザーを響かせた。
「干し終わるのを待っててもらえますか?あ、ダメだ。今日は日曜だから、先輩1人で行ってきてください。」
日曜日は俺たちのような若い連中も買いに行くから、売り切れてしまうことが多い。
「じゃあ、適当に買ってくるよ。」
冷蔵庫の野菜室を開けて中の野菜を確認してから、エコバッグを手に出かけた。
今日は朝からジリジリと太陽が照り付けて、暑い一日になりそうだ。
退院して、希歩と入籍して1か月。
直属の上司である生田目部長が人事に掛け合ってくれたおかげで、勤務日数も一日の勤務時間もだいぶセーブして働いてきた。
以前の俺だったら、『こんな生温い働き方はもういいから、社畜のように働かせてくれ。』と思ったかもしれない。
希歩と再会する前の俺だったら。
今はもう365日、1日24時間ずっと希歩のそばにいたいと思う。
こんな風に野菜を買いに出ても、早足で帰宅してしまうほどに。
「で、トータルでいくらかかったの?」
家のブロック塀の中に入ると、洗濯物を庭で干す希歩の後ろ姿が見えた。
白いシーツを干しながら、携帯を肩と耳の間に挟んで誰かと電話しているようだ。
そのシーツを見て、思わず頬が緩んだ。
夕べも凄かった。希歩は本当に…
「そっか。…ありがとう。…うん、要くんもね。」
音を立てないように歩み寄って、電話を切った途端ワッと驚かそうとしていた足が止まった。
―”要くん”
今現在、俺がこの世で一番思い出したくない人間の名前。
驚かすのはやめて、後ろから希歩を抱きしめた。
「あ、お帰りなさい。何、買ってきました?」
自分に回された俺の腕にそっと触れると、顔を斜め後ろに向けて希歩が微笑んだ。
その赤い唇に自分の唇を重ねた。
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