身を焦がせども蛍は哭けぬ*

35/36
1638人が本棚に入れています
本棚に追加
/129ページ
 板張りの床に座り込んで窓の外を眺めていたのは、若頭だった。  冬の夜空によく似た仕立ての良い藍染めの着流しに、黒灰の羽織。  煙管を唇につけ、浅く吸い込み、そして吐き出す。その動作、その呼吸、髪の毛の先から足の爪のかたち。  男をかたどるすべてが、息を呑むほどに美しくて、呼吸すら奪われる。  服も、部屋も、庭も、玲瓏たる月も、深い夜も、静寂さえも、この男を飾り立てる道具となる。  美しい男だと思った。  初めて会った、この男に負けたあの日、あの瞬間から。  ヒトが月の魔力に魅せられることと同じで。  とっくに囚われていた。  自分のちっぽけな心など、はじめから。 (本当に、なんで()、……居るかなあ)  男のすぐ傍の床に転がる和菓子の包みを見て、音もなく涙が零れた。  未開封の、金平糖が入った和紙袋。  また、土産か。  あまりたくさんは食べきれないと、言ったのに。 「……、っ…、」  口を手で覆って、嗚咽を噛み殺した。  絶対に悟られないようにと、必死に唇を噛んだ。  痛かった。胸が痛かった。  すべての感情がぐちゃぐちゃに混ざって、今まで抑え込んできたものすべてが咳をきったように。こころが痛くて堪らなかった。 (少しだけ、少しだけ、近付けたと思った。) (なのに…───どうして、こうなる。)  どうしてこんなに涙が止まらないのか、辰巳は自分でもわからなかった。  ただただ溢れて、あふれて、コントロールが効かない。  辛くて、息が詰まって、肺を鷲掴みにされたように苦しいのに、どうしようもなくその背中を掻き抱きたい衝動に駆られる。  くるしい────狂おしい。  恋しい。いとおしい。  でも。  自分と関わり続ければ、きっと。  この男はいつか、ひとりぼっちになってしまう。  無惨に破れた部屋の障子が視界に入る。  現実から逃げるようにシーツを頭までかぶって、静かに枕を濡らした。  どうして忘れていられたのだろう。  己が、疫病神と呼ばれていたことを。  他者に己がもたらせるものなど災いだけでしかないことを。  部屋にはそよぐ風の音と、紫煙を吐き出す音のみ。  二人の世界。二人だけの六畳一間。  
/129ページ

最初のコメントを投稿しよう!