苛む千年の秋

15/15
1639人が本棚に入れています
本棚に追加
/129ページ
* * *  不意に違和感に気付いたのは、辰巳が入浴を終えて少し経った頃だった。  この半年間で随分と伸びた髪にあてていたドライヤーを止め、周囲の音に耳を澄ませる。  遠く離れたここでは邸の住人たちの声などほとんど聞こえることもないが、空気がいつもとほんの少し、違う。  敷布団の上に座したままその音に集中していれば、じきに、ほんの小さな衣擦れが聞こえてきた。  徐々に、少しずつ大きくなる。  給仕係が何か忘れ物でもしたのだろうか。  それ以外に、この六畳一間に近付く人間など、誰も……。 (………まさか、な)  浮上した可能性をすぐさま切り捨てる。  あの男の場合、足音は無論のこと衣擦れすら気取られることなくここに来る。  僅かな音の違いだけで見抜くほど聞き慣れた自分に嫌悪しながらも、背後の文机を手で探り、引き出しに忍ばせた筆を探り当てる。  視線は、出入口の襖をひたりと見据えたまま。  あの男ではないのなら、では訪問者は誰か。  ここ数週間、不思議なほど給仕係以外誰もここに寄り付かなかったが、そもそもここは敵陣。  若頭が不在の今、己の身を護れるのも己だけ。  すらりと引き抜いた筆を背の後ろで逆手に持ち返る。  武器というには心許ないが、喉か、最悪眼球にでも柄を突き立てることができれば、相手も極道といえどさすがに怯むはずだ。  『今』の自分が屋爪組の人間相手にどこまで渡り合えるかについては、確たる自信もないが。 「……」  襖を一枚挟んだ先に、人の気配。  ここまで近付いてなおこれほど気配を殺せる人間はなかなかいないと、状況も忘れて舌を巻く。  何の合図も無しに、音もなくスライドする襖。  最初に目に写ったのは、鮮やかな蜂蜜色。 「────こんばんは。そして初めまして」  人好きしそうな柔らかい笑顔が辰巳に向けられる。  仕立ての良い着流し姿がやけに様になる色男。  訪問者は表情を崩さぬまま、明日の天気でも宣うようにこう続ける。 「その物騒なモンはしまっとくれよ。今日は、お前さんに話があってきただけなんだからよ」 「………」  どうやらそう簡単に隙を突ける相手ではないらしい。  相手の顔から目を離すことなく指先から力を抜き、背後に隠していた武器代わりの筆を畳に落とす。  表情ひとつ変えず武器を手離した辰巳を、若頭補佐は依然として笑みを絶やすことなく見下ろしていた。  
/129ページ

最初のコメントを投稿しよう!