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そのうち聞こえてきたパタパタと軽い足音に顔を上げた。
靴音とはちょっと違ったその音に、音がした方向へと顔を向けると、手術室を彷彿させる上下がワインレッドの服の上に白衣を羽織った女性が、静かな廊下にサンダルの足音を響かせながら急ぎ足に診察室へと入っていった。
ほどなくして、晴樹の名前が呼ばれた。
「じゃあ、行ってくるね」
「はい」
再び、静寂が襲いかかる。
耳に残った救急車のサイレンの音が消えてくれない。
夏月は足元をぶらつかせながら、こっそりため息を吐いた。
何もしていなくても時間は過ぎていく。
隔てるものは扉一枚しかないというのに…扉の向こうに入れる権利を夏月は持たないのだ。
その事情が歯痒くてならない。
一緒にいる時間は、ほんのわずかなのに…
『あ、夕方の妊婦さん』
『に、妊婦じゃありませんっ』
『悪いけど、ウチも慈善事業でやってるわけじゃないからさー』
『そんなこと言わないでお願いしますーっ』
「…」
ひとつひとつの出来事が空っぽだった心を満たし、次は何が起きるだろうか、どんな表情を見せてくれるだろうか、楽しみになっている。
『とりあえず三日間だけね』
(どうしよう…)
約束の三日は、もう明日。
(って、今は自分のことよりはるくんのことでしょ!)
ぶんぶんと首を振れば、吐き気にも似た漠然とした不安が込み上げてきた。
「…はるくんが何ともありませんように…」
吐き気を飲み込みながら、夏月は口づけた手を祈るように合わせた。
「…なぎ…ん、柳さん!」
どれくらいそうしていただろうか。
受付で最初に対応してくれた女性の声に、丸めていた背中を起こした。
まばらだった人も、いつの間にか夏月ひとりになっていた。
女性が心なしかイライラした様子でこちらを見ている。
「…柳さん!」
「は、はい!」
「先に保険証をお返ししますね」
(保険証…)
無意識のうちに、視線が手元に落ちる。
(柳…晴樹(やなぎ はるき)…あれ? 柳? パパさんと苗字が違う。柳さん…この人がはるくんのお母さんなのかな…)
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