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「さて、早いお客さんが来る時間よ」と誰かが言ったので、ひとしきりガタゴトと部屋の中が騒めいて、みんなが出て来る気配があったので、立ち聞きしていた新太郎は素知らぬ顔で自室に戻った。テレビを点けたら幽霊ホテルが舞台のスリラー映画を放映していたので、二,三分であわててチャンネルをお笑い番組に切り替えた。開かずの間とは父の部屋のことだとは想像がついた。警備の者が夜中に見た廊下の白い人影とは、父のいる室内にいた看護師がたまたま外に出たのと遭遇したのだろう、と新太郎は考えた。外の雨音はますます激しく、庭木の枝葉が大揺れに揺れ、池の面が白く煙るほど大荒れの悪天候になっていた。新太郎は、こんな日に宿泊するお客さんが気の毒になった。
六 鬼火
新太郎と大女将の沙知の関係はデリケイトだった。生まれて物心ついたら一つ屋根の下に母親と同年齢の女人がいて、幼い頃は訳も分からず双方から可愛がられた。小学校にあがる頃には沙知は祖父の妻で、戸籍上は継祖母ながら、『祖母ちゃん』などとは不自然で呼べるはずもなかった。かといって従業員のように『大女将さん』とも『小母さん』とも声かけられないし、陰では『沙知さん』と呼び、日常声をかける必要に切羽詰まった時には、呼びかけの呼称なしに名前抜きに用事を述べて過ごして来た。母の海香はと沙知は、互いに『沙知さん』『海香さん』と呼び合っていたが、従業員は大女将さんと女将さんと区別して呼びかけていたので、おのずから何事も沙知が上位に立って采配しており、内心では海香は仲違いしていた。従業員の手前、面従腹背で過ごしており、新太郎も母と継祖母が仲良しだという印象を持ったことはなかった。
梅雨の晴れ間の日だった。
「新ちゃん、パパと会えなくなって寂しくないの?」と学校から帰った新太郎は玄関先で植込みのアヤメの花の咲き具合を点検していた沙知から声をかけられた。
「感染する病気じゃないだろう。会わせてくれても良いと思うけどな」と新太郎は継祖母へもタメ口をきいた。
「あなたも可哀想な子ね。パパから遊んでもらった思い出もないだろうからね」と沙知の眼の色が意地悪に見えた。確かに幼い時からごろ寝ばかりしていて、父から遊園地ひとつ連れて行ってもらった覚えがなかった。
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