第1章

13/82
前へ
/82ページ
次へ
「そんなこと、今更どうでもいいよ」と自棄になって言い返した。新太郎の内心も母と同じように何となく理由なく生理的に沙知を嫌悪していた。 「パパの室内に入れる合鍵を持っているのは、お医者さんとわたしと海香さんだけなのよ。新郎さんの願いは生き仏になることだって聞いたわ」と派手に化粧したタヌキ顔で不気味に微笑んだ。背後のアヤメの花が毒気で立ち枯れて腐りそうな薄気味悪さを新太郎は感じた。油屋旅館も、もし父がいなくなれば、祖父が生きている限り経営の全権は、どこからやって来た馬の骨とも知れない沙知が握っていると思うと、さすがにこれまで愚鈍に生きて来た新太郎も腹が煮えくり返った。父母と祖父と継祖母の合同結婚式の披露宴の集合写真は見たことがある。母の海香の親族は湯河原の温泉旅館の経営者に相応しい人品骨柄卑しくない品位を備えた人々が多かったが、沙知の親族と来たら、ほとんどが山梨の猿橋から出席したそうで、その風情はタヌキと猿の郎党が押しかけたようだった。  このまま放っておいたら、いつか母と沙知が正面衝突する事案が起きてもおかしくなかったし、自分がぼんやりしていたら油屋旅館を乗っ取られて放り出される悪夢を新太郎は思い描いた。 「アラ、新ちゃんのニキビはひどいね。顔の吹き出物は色気づいた証拠よ。筆おろしでも実技で教えてあげようか」と沙知から下品にケラケラからかわれて笑われたこともあった。―何言ってやがる。こっちにも選ぶ権利がある。誰が年増のメスダヌキと好き好んで寝るものか。新太郎は心底から呪うと無言で勝手口に向かった。  その晩、女同士のヒステリックな口喧嘩があった。場所は厨房で、夜食の賄い飯を取りに入った時に遭遇した。予感した通り、沙知と海香の正面衝突の発生だった。 「連泊のお客様に前の日と同じ料理を出したら駄目でしょう。お客様がリピートしないと、こんな山奥の町の旅館は立ちいかなくなるのも解らないの!」と大女将の沙知が女将の母を罵っていた。
/82ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加