第1章

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「この町では、昔は肉と言ったらモツのことで、牛肉を注文したかったら正肉と言ったようですね」と新太郎の父の新郎がいつのことだったか卑屈そうに祖父に相槌を打ったことがあった。新郎は生来の虚弱体質が大人になっても治らず、祖父により早々に旅館の跡取りから外されていた。彼は特に責任ある仕事も任せられず、勝手に味噌っかすのように下働きに徹して日々をやり過ごしていた。父は実の母が三十代半ばで悪性の潰瘍で他界しており、祖父の新一郎は四十で男やもめになっていた。女将さん不在の宿屋は花のない空間で虚ろで味気ないものだった。それでも十才だったせがれの新郎が成人するまでは祖父が一人で切り盛りしたそうだった。泊り客も常連ばかりだから生け花一つない殺風景な部屋の景色で我慢してくれた。しかし、町の振興に連れて旅館を新装したのだった。ちょうど新郎が二十歳になっていて、その途端に仲立ちする人が現れて、神奈川の湯河原温泉旅館の娘さんと見合いさせ順調に結婚に至ったのだった。新朗新婦ともに同い年だった。祖父の新一郎も五十の坂にさしかかって、約十年の男やもめ暮らしに懲りたのか、それとも息子の婚姻に刺激されたのか、かかりつけの近所の病院で受付事務員をしていた娘のような二十歳の沙知を口説いて後添えにした。自分の旅館の大座敷で親子ダブルの盛大な婚礼の披露宴は盛況で招待客が入りきれず、はみ出した連中は庭にむしろを敷いて車座で飲食してもらった程だった。  ただし、新郎の嫁の海香も父親の新一郎の 後妻の沙知もタヌキ顔で、宴もたけなわの頃は、親子二代のタヌキの嫁入りの揃い踏みだ、と酔っ払った招待客が陰の方で囁いて密かに盛り上がっていた。とにかく、大女将と亭主と若女将が三人そろって二十歳と同い年なのが珍しくて専ら町の噂となった。  息子の新郎も若女将の海香も自分らと同い年の大女将の沙知が何かと煙たそうだった。 新郎には彼女が戸籍上は継母でありリスペクトは払わねばならない。父の新郎がいつしか大女将の顔色を見ながらものを言う肩身の狭さが子供心の新太郎にも感じられた。  母の海香も一応は女将さんと従業員から呼ばれていたが、同い年の大女将に頭を押さえつけられた格好で窮屈そうにしていた。
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