第1章

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「まあ、バカバカしい!男子のソフトボール部がある大学って聞いたことないわ。正気でものを言っているの」と母はくすくす笑うしかなかった。桜の葉陰から又毛虫が落ちて来たので母は立ち上がった。新太郎は放課後に同好の仲間とソフトボールの試合をして遊んでいたと言った方がむしろ正確で、ユニホームはトレパン姿、バットもグローブも学校の備品で間に合っていたので、家人は新太郎が部活していることに気が付かなかったし、彼からも家族の誰にも言ったことがなかった。 「帰ったらお祖父さまに進路を相談するのよ」と言い残すと母は校門に向かい帰路についた。昼休みも終わる時間が近づいて母の憂鬱な顔が新太郎のまぶたに残像として焼き付いた。 三 青葉若葉  新太郎は鬱屈した気分で学園の日々を送った。やはり母に言いつけられたように進学希望のことは祖父の耳に入れない訳にはいかないと思った。旅館業は年中無休で祖父はいつでも平家蟹の甲羅みたいなしかめっ面で、何か帳面を読んだりメモ帳に熱心に書き込みをしていたり、話し掛けるタイミングが難しかった。ただ祖父には高尚な趣味があった。何年か前から老人クラブの詩吟同好会に入って結構気に入っていた。時々一人裏山に入り、竹林の中で声高く詩吟を吟じるのだった。新太郎の漢文の教科書に掲載されている唐詩を気持ち良さそうに吟じているのを見たこともあった。祖父は無我の境地のようで声をかけるのを遠慮したものだった。一曲吟じた直後あたりを見計らって声をかければ、交渉事はうまく行くと新太郎は浅はかに考えた。 祖父さんが新緑の土曜日の午後に裏山に分け入っていくのを追っかけた。果たして竹林に向かって直立不動の姿勢をとると、七十になる喉の奥から凄い声が噴出した。いや、山火事に遭遇し、焼け死にそうな猪の咆哮のようでもあった。吟じていたのは新太郎も知っている孟浩然の『春暁』だった。    春眠暁ヲ覚エズ    処処ニ啼鳥ヲ聞ク    夜来風雨ノ声    花落ツルコト知ル多少  一曲吟じ終わったタイミングで、新太郎はお道化てワッと祖父の面前に跳び出した。 「祖父ちゃんの美声最高だよ。ロケットみたいに天に吸い込まれて行ったよ」と褒めてみた。 「新太郎、爺ちゃんの後を尾行して来たのか」と眼をまん丸くした。 「祖父ちゃん、言いそびれていたけど話があるんだ」
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