第1章

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「鞭声粛々夜河を渡る…」と新太郎の存在を無視するように腹の底から絞り出すような詩吟を開始した。仕方なく新太郎は念仏を聞くような気持ちで青葉若葉の山道を降りた。 四 緑の風  新太郎は家に戻ると座布団に座ったまま居眠りしている父の新郎を起こした。テレビの再放送の恋愛メロドラマが点けっぱなしだった。ちょうど夫と愛人の浮気現場に本妻が押しかけた不倫の修羅場で、女の喧嘩に新郎の眼はテレビにくぎ付けになった。 「パパ、話しを聞いてよ」 「ちょっと待て!今、面白いところじゃないか」と新太郎を制してムクッと背を起こした。 「寝ていたんじゃないの?筋が解って見ているの」と新太郎が文句をつけた。 「うん、こういうのは大概同じストーリーなんだよ。どれも似たり寄ったりで変わり映えしないな」と涼しい顔で言い返された。仕方なく新太郎もテレビの画面に目をやった。画面が男に去られた静かな女のすすり泣きのシーンに変わったところで再び話しかけた。父は面倒臭そうに畳に寝っ転がった。 「パパ、大学に行っていいでしょう」 「ああ、合格すればな。でも絶対無理だそうじゃないか」と笑われた。  それで海香と夫婦の会話はあるようだと解った。 「大学に行く目的はあるのか?何を学びたいのだ」と父の方から聞いてきた。顔をみたら目を瞑ったままだった。新太郎は即答できなかった。クラスメイトがみんな進学希望だから言い出した話だったからだ。窮余の一策で新太郎は間をおいて答えた。 「R大に観光学科があるから、そこにするよ。旅館経営に役立つでしょう」と自信満々に言ってみた。 「そんな一流大学なんか高嶺の花で手が届かないだろう」と父の眼が開いた。新太郎は勉強嫌いで過ごしてきた小学校以来の学校生活を悔やむしかなかった。確かに今になっても九九もろくに言えず、分数計算も簡単な方程式も、まして因数分解や幾何学や物理、化学に至っては全く歯が立たず、それどころか当用漢字すらもろくに書けない、英語も読めない、書けない、話せないのないない尽くしの自分が、今から詰め込みの受験勉強をしても現役合格は到底無理だと思い知った。 「パパ、それなら写真の専門学校に行きたいよ」と思い付きで言った。 「写真か、誰でもシャッターを押せば何か写るからな。馬鹿チョンカメラか」と珍しく父の新郎が片頬を歪ませて黄色っぽい歯をこぼした。
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