誘惑

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気がつけば、店のカウンター。 元の世界。 静まり返った店内には、悪魔の姿も、さっき私を正気に戻してくれた腕の主もいない。 足元から震えが来る。 とても今起きたことを冷静には考えられない。 内容が内容だけに人にも言えない。 フッと笑いが浮かぶ。 思えばこんなに感情的になっている自分は初めてだ。 そうか、これが恐いという感情か。 カランコロン 反射で体が竦む。 「閉店?」 常連客だ。店の中の空気が一気に軽やかになる。 「構いませんよ、飲んでって」 いつもこの人はソルティドッグ。 カウンターに座り、私の顔を覗き込む。 「大丈夫?顔色悪い」 驚いた。 この客あまり喋らない。 たまにブツブツ独り言言って、残念イケメンだなあと思ってた。 「あのさ」 彼がフワッと笑った。 グラスの塩をなめカクテルを一口含む。 「人の嗜好はそれぞれだから。 心の思うままに従ってみたら?て、じじいが言ってる」 どう聞いたって怪しい。 つい今しがた、私に起きたことを知ってる? 次々に疑問が浮かぶ。 「じじいって。 あの腕の人ですか?」 彼の目が私をじっと見つめ、 「あんたのこと、心配してる」 誰?何者なの、あの腕の人、そして貴方。 聞こうと思ったけど、 止めた。 それよりも。 この人の言うジジイの言葉が私の胸にずっしりくる。 向き合ってみようか。 自分の心に。 彼女へのこの感情がそうなのかどうか、確かめたい。 こんな状況だけど。 ちょっと安心する。 私だって感情、ちゃんとあるじゃない? 振り幅がちょっと人より小さいだけ。 今だって。助けてくれたこの人に素直に礼が出来る。 「ありがとう、助けてくれて」 グラスを干すと彼は微笑んで 「帰ろうか。送ってくよ」 いつもなら丁重にお断りするところ。 だけど、今夜は。 「お願いします、着替えてきます」
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