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あ。
と思ってしまった。
啓介がその名前を口に出した時の、耳障りな空気をユカは敏感に感じ取ってしまった。
気づきたく無かったのに。
知らなければ幸せな毎日。
ここから先はゆっくりと壊れる音が響き始める。
土曜の夜の何気ない会話の中で、不自然では無く発せられた「アキコ」という音は、そこだけ固く重い空気を纏ってユカの耳に傷を付けた。
傷つくのは耳だけだと良いのに。
と思ったけど、その時すでに痛い想いをするのは耳だけではない事は分かっていた。
「いってらっしゃい」
啓介は目黒の不動産屋で働いている。
「今日は職場の飲みで遅くなると思うよ。」
分かった。と小さく答えて瞬時に今日の動きを考える。
飲みで遅くなる時は帰りは大体12時過ぎ。
今日行く予定だった美容室は、昨日のうちにキャンセルしてある。
午前中に家事を全て終わらせて、ケータイショップに行こう。
啓介が家を出るとユカは洗濯機を回した。
壊れたケータイを持って渋谷のiPhone修理専門店に入った。
雑居ビルの7階。
やけに白い壁紙は、よく見ると端にホコリが溜まっている。
すみませんと声を掛けると、はーいと間の抜けた声がして若い女の子が出てきた。
「お電話した佐藤ですが。」
「あ、佐藤さんですね。お待ちしてました。」
パーテーションの裏からのっそりと生気の無い男が現れた。
「ケータイの修理ですよね?今お持ちですか?」
ユカがケータイを渡すと、充電器やら見た事の無いコードやらを持ち出して来てひとしきり調べ始めた。
「うーん。」
「直らなそうですか。」
「ちょっと直ぐに何とも言えませんね。」
気を落とすユカに男は付け加えた。
「もしかすると直ってもデータが全部消えてしまう事もあるかもしれませんが、どうしますか?」
今はこれに賭けるしかない。
「お願いします。」
思ったよりも切迫したユカの声に、一瞬男は何か言いかけたが、思い直して
「やれるだけの事はやってみます。」
と言った。
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