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狭い部屋だった。
キッチンに風呂とトイレ、あとはひとつ部屋があるだけの、わかりやすいワンルーム。最小限の家具だけが置かれるに留まり、目に入るものは数えるほどもない。良く言えば清潔感のある、悪く言えば殺風景なこの空間で、一組の夫婦が暮らしていた。
朝がやってくると、二人は早くから起き、夫は仕事の支度をして、妻は食事の準備をした。早朝の忙しい時間は瞬く間に過ぎて、夫は朝食もそこそこに玄関の扉に手を掛けた。
「いってらっしゃい」
妻はいつも後ろから見送りの声をかけてくれた。ただ、夫はほとんどそれに応えることはなかった。夫は無口な、口下手な人間だった。
夫が仕事に向かうと、そのすぐ後には妻も働きに出る。二人は共働きで、時代のせいかそれでも生きていくのがやっとだった。結婚を決意してから三年ほどになるが、まだ生活は豊かにならなかった。
部屋はほとんど蛻の殻で、連れ立って歩く様子もない。喧嘩こそないようだが、特別仲が良くも見えない。どうしても苦労ばかりが目につく二人は、いつになったら別れるものかと周囲からいつも囁かれた。
普段は妻が先に帰宅する。夫はたいがい夜遅い。二人とも仕事で疲れていれば、まるで会話のない日も多かった。仕事に行き、帰り、寝るだけの生活。子供を育てるのはまだまだ先の話になりそうで、それでも二人は一緒にいた。
「あななたち、別れた方が幸せになれるんじゃないの?」
妻が休みの日、たまたま出くわした近所のおばさんにかけられた言葉だった。
「いいえ。裕福ではありませんけど、わたしたちは二人でいるのが幸せですから」
それに対し、妻は柔らかな笑みでそう答えた。おばさんの方は意図を掴みかねるという風に、怪訝な顔をする。
「そうかい? あんた可愛らしいのに、もったいない気がするねえ。もっといい男つかまえるくらい、すぐにできそうだけど」
「あの人も、とってもいい人ですから」
妻だけが知る、妻だけにしか見せない夫の優しさがあった。
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