第3章 誘導

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 同じ頃、小笠原物産の営業部フロアに先触れ無しに現れた紳士を見て、面識の無い社員は首を傾げたが、その人物が真っ直ぐ向かった先の部長席では、慌てた様にそこの主である春日が立ち上がった。 「やあ、春日さんお邪魔するよ」 「お久しぶりです、石黒さん。今日は契約締結の為にこちらまでご足労頂き、ありがとうございます。準備が整っていなくて申し訳ありません」  片手を軽く振りながら挨拶してきた来客に春日が詫びると、石黒は鞄と一緒に持参した紙袋を春日に向かって差し出しながら、話を続けた。 「いや、前の商談が予想以上に早く片付いて、予定時刻より早く着いてしまって。受付を通すと慌てさせそうだから、直接こちらに出向いたから気にしないでくれ。商談の前に君にこれを渡したかったし」 「何ですか?」  不思議そうな顔をして受け取った春日が、中身を覗き込んで高級ウイスキーのボトルである事を確認して目を丸くすると同時に、石黒が苦笑いで事情を説明した。 「昨日貰ったんだが、最近医者に酒は止められていてね。女房が『誰かに回す』と言うから今日ついでに持って来たんだ。好きだろう?」  旧知の人物からそう問いかけられて、春日は満面の笑みで頷いた。 「ありがたくいただきます。すぐに書類の準備をしますので、奥のソファーでお待ち頂けますか?」 「ゆっくりで構わないよ」  そして愛想を振りまきつつ、周囲を見回しながら移動し始めた石黒だったが、ふと室内の一角に目を止めて首を傾げてから、ソファーとは違う方向に歩き始めた。  それを見ていた者達は不思議そうにその背中を見やったが、石黒はそんな視線には目もくれず、ある机に歩み寄り、そこで仕事をしていた人物を軽く覗き込みながら声をかける。 「……椿ちゃん?」  石黒が幾分自信無さげに声をかけると、恭子は振り返って相手を見上げ、次いで笑顔で静がに立ち上がり、その場で深々と一礼した。 「お久しぶりです、石黒様。ご無沙汰しております」  そして恭子が頭を上げて再び笑顔を見せると、石黒は嬉しそうに恭子の肩を叩きながら再会の挨拶をした。 「やあ、やっぱり椿ちゃんだ。驚いたよ、こんな所で会えるなんて。《シザール》を辞めて、どこぞの作家先生の下で働き始めたと聞いていたが、小笠原物産で働いていたのかい?」 「去年までは東野先生の所で働いていましたが、今年の三月からこちらで働いております」
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