第3章 誘導

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「そうかそうか。久しぶりに椿ちゃんの元気な顔が見られて嬉しいよ。皆に自慢しないとな」  そう言ってカラカラと笑った石黒に恭子も楽しそうな笑みを向けたが、ここで控え目な声が割り込んだ。 「あの……、石黒さん。うちの川島とは、以前からのお知り合いですか?」  疑惑に満ちた眼差しで、課長の杉野が席を立って近寄りつつ尋ねてくると、二人はあっさりとその事実を認めた。 「ああ。彼女が銀座のクラブ《シザール》で働いていた時、客の一人として知り合ってね」  その超高級クラブの名前が出た途端、室内の空気がざわりと揺れた。それを確認した恭子と石黒は、無言で顔を見合わせてほくそ笑みつつ、先日の打ち合わせ通り話を続ける。 「石黒様には、その節は随分ご贔屓にして頂きました」 「いやいや、俺の支払いなんて微々たるものだよ。あそこは客層が凄いが、皆こぞって椿ちゃんを指名してただろう? 俺は顔を出せなかったが、君が辞める時の店でのお別れパーティーには、錚々たる顔ぶれが揃ったそうじゃないか」 「大げさすぎますよ。絶対、噂に尾ひれが付いてますから」 「そんな事はないさ。実際、椿ちゃんは楓ママの次にモテてたしな」 「あら、そんな軽口を叩いてしまって良いんですか? 石黒様がご贔屓にしていたゆかりさんと都さんに言いつけてしまおうかしら? 今でも付き合いはあるので、石黒様がこんな事を言ってましたと教えたら、ショックを受けそう」 「うわ、それは勘弁してくれ。絶対拗ねられるから。ここだけのオフレコって事で」 「了解しました。ご安心下さい」 「それは良かった。助かったよ」  和やかにそんな会話をかわしているうちに、春日がやって来て石黒に声をかけた。 「石黒さん、お待たせしました。準備が整いましたので、応接室の方にどうぞ」  それを受けて、石黒が名残惜しそうに恭子に別れを告げる。 「分かりました。それじゃあ椿ちゃん、失礼するよ」 「申し訳ありませんが石黒様、こちらでは源氏名ではなく、本名の川島で勤務しておりますので」  にっこり笑いかけられながらの台詞に、石黒は一瞬きょとんとしてから、すぐに仕事向けの顔になって片手を差し出した。 「ああ、それはそうだな。それでは川島さん、お仕事頑張って下さい」 「はい、ありがとうございます」
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