第1章 嵐の前の静けさ

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「川島君、ちょっと来てくれ」 「はい」  少し離れた位置から呼ばれた恭子は、書類作成の手を止めて立ち上がり、まっすぐ課長席へと向かった。 「課長、何でしょうか?」  すると杉野は、机の上で両手を組みながら、思わせぶりに話し出した。 「君の仲介で、この間随分商談が楽になっているが……」 「恐れ入ります」 「一作家のアシスタントをしていたと言う割には、随分人脈が広いんだな」 「と、仰いますと?」  恭子には次に続く台詞が大体予想できたが、しらばっくれて尋ねてみた。すると杉野が、何か含む様な口調で続ける。 「成田部長や根岸専務とかから、色々話を伺っていてね」 「どんなお話でしょうか? お二人とも中途採用の私を気遣って頂いて、お食事を奢って頂きながら、ためになるお話を色々聞かせて頂いたのに、あんな事になって本当に残念ですわ」  片手を頬に当てて心底残念そうに恭子が述べると、杉野の表情が僅かに当惑したものに変化する。 「……ほう? 残念かね」 「はい、勿論です。これからの小笠原物産を、担っていかれる方達だったのでは?」 「そうだな。私も残念だ。ところで、こちらの商品を山種重工に売り込みたいんだが、知り合いは居ないかね?」  探りを入れるのはまたの機会にしようと思ったのか、杉野はあっさりと話題を変えて書類を差し出してきた為、恭子もそれを受け取りながら真顔で応じた。 「山種重工には直接の知り合いは居ませんが……、そこが所属しているY&Tホールディングスの江藤副会長なら、これまで色々ご一緒させて貰っています」  淡々と恭子が述べた内容に、杉野が驚いた様に軽く目を見張る。 「……江藤副会長だと?」 「駄目でしょうか。口を聞いて貰う位は、できるかと思いますが」  心配そうな顔を装いお伺いを立てた恭子に、杉野は我に返った様に慌て気味に指示した。 「いや、十分だ。早速副会長に渡りを付けてくれ」 「了解しました。明日までには連絡を付けてみます」 (さて、怪しさ全開でも、利用するだけ利用しようって根性は逞しいけど、未だに墓穴を掘ってる事に気が付かない辺り、救いようがないわね)  一礼して自席に戻りながら、恭子は密かに笑いを堪えた。そして抜け目なく、仕事の算段を頭の中で組み立てていく。
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