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店長の潤さんに“1月末で退職したい”という話をしたのは、まだ銀杏が色づき出した頃。
病気で倒れた父親の代わりに兄夫婦が店を切り盛りし始めた和菓子屋が私の実家だ。
母は既に他界していて、家事や店番を任されていた義理の姉の妊娠がわかり、戻って来てくれないかと兄から頼まれていた。
美容師になることを後押ししてくれた亡き母と、“少しだけど”と毎月仕送りをしてくれていた父親に恩返しするつもりで、私は二つ返事で快諾した。
成人式が終わったら、お客様情報のまとめ等の引き継ぎを始めることにしていた私。
持ち出すには多すぎるお客様カルテは、ワンルームの私の部屋に持って行けず、閉店後の事務所とパソコンを借りることになった。
ついに今夜、その作業に取りかかる。
お客様一人一人を思い出しては、髪の癖や注文されたことや、世間話の内容から得た好みの服や色……
お客様カルテに書きなぐった情報を、次に入ってくるだろう新しいスタッフのために、カタカタとひたすらキーボードを打ち続けた。
その音の隙間から時々聞こえる雑誌を捲る紙の音。
足を揺らしているのか、靴の先が机の足に当たり、時折コツンコツン…と聞こえる。
何も話さなくても、
お互いに別のことをしていても、
特に気を遣うこともなく自然体でいられたコータとの関係だったはずなのに。
この無言の状況が今夜は苦しいと感じるのは、
この店を辞めることを、
地元に戻って実家を手伝うことを、
私が彼に伝えそびれているからなんだろう…。
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