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それは大正12年の初夏、小雨がそぼ降る日であった。
私こと天神牛子(てんじんうしこ)が務める寺田寅彦(てらだとらひこ)の研究室に、1人の男が訪ねてきたことから話は始まる。
「寺田先生にお願いにきました」
木綿の着物にモジャモジャの髪をした書生風の男──明智小五郎(あけちこごろう)が頭を下げて言った。
「噂の明智君に頼まれるとは、はて一体どんな難事件なのかな」
寺田がプカリと煙草をのみながら首をかしげた。
この寺田、東京帝国大理科大学の教授である。金平糖の角の研究とか、とにかく変な探求ばかりしている科学者なのだ。
「もー、教授ったら。とぼけないでください。明智さんが恐縮してるじゃないですか」
私は猫背の貧乏神のような寺田をいさめながら、それでも興味津々で耳を傾けていた。
この明智は「D坂の殺人事件」や「屋根裏の散歩者」といった幾つかの事件を推理して、巷間で有名な探偵なのである。
「こりゃ失礼。この娘は助手をしている牛子君といって、陰陽師の末裔という珍種なのだよ」
「私を動物みたいに言わないでください」
唇を尖らせて抗議する。
私の家は幕末に没落したが、これでも陰陽師の名門である土御門の分家である。
それゆえか不可思議な事件に遭うので、好奇心の強い寺田に気に入られているのだ。
そんな私たちを世間では“牛寅コンビ”と呼んでいた。
「博学多才で知られる寺田先生にしか頼めないことです」
明智が頭を掻きながら言った。
「どうやら面白そうなことらしいね」
「寺田先生と親交のあった故人──それは夏目漱石先生に関することなのです」
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