第1章 死送る者のレゾンデートル ─ ケース1 ─

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 服部女史の言葉を聞いて、理由もなくナギサと名乗った彼女だと確信した。 “ここにいた者たちには、子どもの叫びが聴こえなかったのか?”  昨日聞いた言葉が甦る。 彼女には、虐待されていた子どもの声が聴こえていたのだろうか。  僕がうつむいたまま無言でいると、後ろで黙って聞いていた雉子さんが口を開く。 「でも動物や物のように扱うなんて、自分の子どもなのに無関心は信じられませんね」 「ネグレクトと言えば」美蝶子さんも同調する。「あたしが留学していたカナダでは、12歳未満の児童を留守番させることは法律で認められていないのよ。 だから日本で子どもを家に長時間残すことを言うと、向こうの人は驚くのよ。子どもを家に留守番させて、遊びに出たら交通事故に遭う場合もあるからね」 「共働きや片親の家庭もありますからね、子どもが安全だという状況が必要ですよね」 「それって難しいじゃないですか。絶対に安全だという保証なんてありませんよ」  僕もつい言葉を挟んでしまった。 「う~ん、やはりご近所さんが頼りなんですかね。よく言うじゃないですか、おせっかいなおばさんとか面倒見のいいおじさんがいた、昭和のような昔が良かったみたいな」  昭和大好きな雉子さんが言うと、それをやんわりと諭すような声がする。 「それは違うな、道明寺君」  そこに笠 寅雄(かさ とらお)所長が後ろ手で組みながら立っていた。  笠所長は優しく温厚なお爺さんといった風貌で、何くれとなく職員を気にかけている児童相談所の大黒柱である。  寺の住職の跡取りだったので「御前様」と親しまれているが、理不尽なことには烈火のごとく怒る一面を持つ。  かつては市長候補と嘱望されたほどのキャリアだったが、児童虐待に触れて福祉に邁進する人生を選んだと聞く。
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