プロローグ

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(もっと早く救ってあげられたら……ごめんね、ごめんね)  救急車に運ばれるストレッチャーを眼で追いながら、心にあふれたのは許しと謝りの言葉しかない。  せめて子どもに言葉をかけてあげたかったが、立ち並ぶ警官に阻まれて近づくことはできなかった。  やがて救急車のサイレンと共に、野次馬の群れも潮が引くように去っていった。  おそらくこの現場の記憶は、平凡な生活に埋没してしまうのだろう。  そうやって日常とは異質な闇を封じ込めてしまうのだ。児童虐待という暴力を忌避するように。  僕は心底途方に暮れて、うつむいたまま言葉がなかった。そうして自分の無力さに歯噛みする。痛恨する。 (僕はその悲しみを表す言葉を知らない)  いや、それを悲しむ“自分”を表す言葉を持っていなかった。  僕らは言葉があふれかえる世界で生きている。  それなのに、自分をあらわす言葉を持たない。他人と違う言葉を持っていない。  子どものときは、大人になれば自然と身につくと思っていた。  けれども、大人になっても働くようになっても、自分を自分たらしめる言葉を知らない。  ここに自分がいると感じられる言葉が見つからない。  言葉の豊かさと社会の豊かさは、実は似ているのかもしれない。 (僕はまだ、自分の言葉を探しあてていない)  ──そのときである。  静寂を破るような憂鬱な吐息が、どこからともなく聞こえた気がした。  しょぼくれた顔を見られたと思い慌てて視線を上げたが、そこには誰もいなかった。  また視線を落とすと、視界の端に黒いものが映る。  それは1匹の黒猫だった。
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