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真樹は怒っているわけではない。優司に一息つかせてヘッドフォンを装着する間を与えたのである。
大丈夫よ。ユウちゃんのタイミングで合図をちょうだい……
ヘッドフォンを付け、右手でケーブルを視界から追いやった後。優司は真樹に目配せをする。
斎藤
「信じられない!遅刻するなんて!」
富田
「仕方ないだろ。半蔵門線が止まっちゃったんだから」
斎藤
「はいはい。言い訳はあとでお聞きしますから。始めましょ」
富田
「あーっ!ちょっと待ったーっ!」
ジーンズのポケットからハンカチ代わりのバンダナを取り出し、顔の汗を拭ってから向かい側の席の缶入りのお茶── 真樹のそれを一口すする。
斎藤
「大丈夫?」
富田
「OK!」
斎藤
「渋谷FMJスタジオから生放送!」
富田
「ジャム・ジャム・ジャンクション!」
「「Wednesday Special!」」
2人が叫ぶと同時に1曲目のイントロが流れる。
富田
「あ~、死ぬかと思った」
斎藤
「渋谷駅から走って来たの?」
富田
「ええ」
斎藤
「すごい汗」
富田
「『バラード1曲分だよ』だよ」
優司が好むロックバンドの曲の名科白。
斎藤
「曲の間に落ち着かせてね。それではお届けしましょう──」
真樹が曲紹介を済ませてマイクのレバーを下げる。それと同時に、スタジオにいる関係者一同から安堵のため息が漏れた。
《ユウちゃん、大丈夫か?CM明け、もう1曲入れるから》
ガラスの向こう側。粋な計らいをしてくれたディレクターの声がヘッドフォンから聞こえるのを、優司も右手を挙げて応える。
水天宮前駅からは、いつもの電車に乗れていた。順調に行けば渋谷駅からゆっくり歩いても10分前にはスタジオに入れる。
しかし。今日は渋谷駅に着いたのが生放送開始の5分前。間に合わないとわかっていても、駅から走ってやって来たのだ。
「よく間に合ったね。さすが元、陸上部」
リスナーからのリクエストFAXの束を整理しながら、そのままの目線で真樹が言う。
「さすがにヤバかったね。サンキュ、先輩」
「どういたしまして」
優司は曲やCMの間、ヘッドフォンの片耳をずらしている。マイクのレバーを上げなければ、スタジオ内の音が決して外に漏れることはない。
CMが終わり、2曲目がオンエアーされている今。2人の会話を聞ける者は誰もいないのである。
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