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案内された丸太小屋は、家具と呼べるのは椅子のないテーブルくらいのがらんどうだった。壁に取り付けられた棚には、僕の部屋のベッドサイドにあるものと違う色のリボンを付けたテディベアがひとつ置かれているだけで何もなく、カーテンで仕切られた奥には何があるのかは分からない。煙突が天井へと続く薪ストーブには布がかけられており、薄く開けた窓からは雨音が聞こえていた。
「…………美大に入学して半ばも過ぎた頃です。緊縛のショーに行かないかと間宮に誘われたんです。綺麗だから一度みてみろと」
屋敷のコックさんに用意してもらったというバスケットの中には、ピクニックにでも行くかのように数種類のパンとチーズ、僕の好きなスコーンと果物が入っていた。水筒から温かい紅茶を注いでもらったカップを握りしめながら、敷いてくれたラグに座り翠川の話に耳を傾けていた。
「衝撃的でした。間宮は真面目一辺倒の私を面白半分で誘ったらしいのですが、一目で陶酔してしまいました。小さい頃から好きだった粘土遊びの延長で大学に入り、それで生きていけるなら何もいらないと思っていた私には」
エアコンが無くとも涼しいが、吹き込む風は湿気を帯びていて天井近くの梁に取り付けられたレトロな扇風機が僕のシャツを揺らしている。
「その場でショーを主催していた師に頼み込んで一から教えてもらい、やっとお金を頂けるようになった頃です。興行でイギリスに行く師の助手としてついて行った時に壮一郎様に出会ったんです」
「おじいちゃんに?」
「ええ。師の古い友人で、お屋敷で働かないかと誘われたんです」
「それで執事になったの?」
「はい。熱心に説得されました。そのままイギリスに留まるように言われ、師も壮一郎様に気に入られたのならお手上げだと帰国してしまいました。そして、壮一郎様は緊縛を生業にしようとしていた私を、右も左も言葉も通じない土地のバトラー養成の学校に放り込んだんです」
「バトラー?」
「執事のことです。人生は何が起こるか分からない……少なからず私も瀬奈様と同じです」
そんな強引なおじいちゃんが想像できず、懐かしそうに話す翠川を見つめていた。言われてみれば、確かに境遇は似ている。おじいちゃんによって翠川と僕の生活は一変し、今、こうしてここにいる。
何か腑に落ちない。
そんな引っ掛かりを覚えたが、今はそれが何なのか分からなかった。
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