09.

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「キスがドキドキして死んでしまうとは思いません。が、瀬奈様にひどいことをしたと思ってます」  少しだけ拓けたその場所に、アトリエはあった。辺りの草は刈られていて、暖炉でもあるのか煙突が付いた可愛らしい飴色の丸太小屋。まるでお菓子の家のような雰囲気に目が奪われてしまった。エンジンを切った車内で翠川は髪をかきあげ眼鏡を外し、レンズを拭いている。 「ひどいこと?」 「あの日、意識が飛んでしまうのは分かっていました。しかし、気持ちが抑えきれず繰り返し」 「もうそれ以上、言わないで!」  恥ずかしさが込み上げてきて、両手で顔を覆った。翠川はやっぱり"貴方"で、あの場にいた。 「綺麗でした」 「綺麗なんかじゃない。僕の体おかしいもん!」 「……雨が強くなりそうです。嫌でなければ中で話しませんか?」 「嫌だなんて」  翠川は運転席から降り後部座席のドアを開け手を差し伸べてくれる。いつもだったら白い手袋に包まれている手指。浮き上がる血管も筋もひとつひとつを見てみたくて視線が留まってしまう。 「翠川、聞いて欲しいの。翠川のこと、一度だって僕は嫌いだなんて思ったことないからね」  翠川の誤解をきちんと解かねばと焦り、どんな時も僕を支えてくれるその手を両手で握っていた。 「辞めるとか、本当にダメだから。翠川がそばにいてくれないと……僕、凄く困る」 「瀬奈様」 「僕のこと翠川の好きにしていいからっ」  いくら必死だったとは言え、自分の口から飛び出した言葉に驚いてシドロモドロになってしまう。 「だって、ほら、"SはMの意のままに"ってメールに書いてあったし」  翠川の首を傾げた様子に何か場違いなことを言ったのではないかと思い、口を噤んで俯くと、雨に濡れる夏草に膝を付いた翠川が、視線を合わせるようにして僕の視界に入ってきた。 「…………瀬奈のSと萌峰のMでしょ?」 「そのようなおこがましいことは申し上げていません」 「じゃぁ」 「まだ瀬奈様には少し難しいかもしれませんね」  静かにそう言った翠川の肩には、雨が滲み始めていた。
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