09.

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「執事になるの嫌じゃなかった?」 「そのころ私は、根無し草でしたから。大学を辞めた時点で親には勘当され、師のスタジオで眠ることもありましたし、身の回りの荷物なんて……そうですね、瀬奈様がお屋敷に来た時に持っていたそのリュック程度でした。そんな私でしたから、流されるのも悪くないと思って受け入れたんですよ」 「そんな翠川……想像できない」 「そうですか?」  苦笑いを浮かべながらカップを置き、部屋の中央まで歩いてきた翠川は手を伸ばし電球に明かりを灯した。裸電球のそれは振り子のように吹き込む風で揺れる。 「壮一郎様が、なぜそこまで私を気に入ってくださったのか今だに分かりません」 「今は?」 「緊縛ですか?」 「……うん」 「好きですよ。瀬奈様の縛られた写真を見たとき、久しぶりにゾクゾクして胸が昂りました。何年もくすぶっていた気持ちが湧き上がるような……瀬奈様のお父上に嫉妬を覚えました。しかし、瀬奈様はまだ十五歳。立場もありますゆえこの気持ちは抑え、お仕えせねばと心に決めていたのに……」  翠川は眼鏡をテーブルに置き、目頭を押さえていた。僕が聞きたかったのは、そういう事ではなく、"今でも誰かを縛ることがあるのか"という事。父がそうであったように、恋愛感情など無く欲を満たすことはできるだろう。でも、そんな事を聞く勇気もなく僕はその言葉を胸にしまった。 「酷いものです。  初めて言葉を交わした日に自慰を見せられ、欲求をひた隠しにする私の気持ちなど関係なく瀬奈様は熱にうなされ"縛って"とおっしゃる。泳ぎが得意ではないはずなのにタイムアタックのためと明らかな嘘をついて剃毛され……純真無垢なお顔立ちの瀬奈様がする事すべてが想像以上で驚いておりました」  ラグの上の軽い食事に手を付ける気にならず、僕とは縁のない純真無垢と言う熟語の意味を翠川は間違えて覚えているのではと思ってしまった。 「そんな瀬奈様のメールに返信したのは私の下心です。恋に落ちるには、十分すぎるでしょう」 「恋に落ちる……?」 「ええ。恋は落ちるものなんですね」  翠川に真っ直ぐに見つめられ、年上の翠川の素直すぎる告白に恥ずかしくなってしまう。
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