晴に恵まれて

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 周りが水に囲まれた中でも、不思議となにかの香りがした。水底の土から香るのか、いつも湖の方から流れてくる潮でもない特異な香り。この空気は私をどこか安心させてくれて、同時に非日常な体験をしているような気分にもさせられた。春も濃くなり、様々な草木が発しているそれぞれの葉の匂いも、この湖の奥までは届かない。 「冗談ですよ。それにルアーじゃ鯨は引っかかりませんしね」  ルアー云々ではなく、一本釣り自体が不可能じゃないの。バカバカしくて言う気にもならない言葉を脇にやり、私はボートに寝そべった。ゴトンという木製の物音がどこから出たのか、きっと私の頭がボートについたからなのだろうけど、それは私の耳には遠く聞こえ、まるで自分の奥から出た音のように芯に響いた。 「じゃあ気が済むまでやったら言ってね。私ちょっと寝るから」 「えー、せっかくなんですからお話しましょうよ。ただでさえ昨日一日潰れちゃったようなものなのに」  不平を鳴らすレイカに私は起き上がり答えた。こちらは目を不満そうに細めることを心がける、ついでに少しシワだって寄せてやる。 「レイカが昨日遅くまで話に付き合わせるからでしょう。おかげでこっちは寝不足なの」  いやーと後ろ頭を掻くレイカ。まるで悪びれる様子もなく、前が開いたパーカーが楽しそうに踊った。 「でも楽しかったじゃないですか。センパイの高校時代の話とか」 「それはそれ、これはこれ」  改めて寝そべる。眠いといったら眠いのだ。良く晴れた青空が両目を占領するけれど、煩わしいと私はそれを瞼から追い出した。  レイカはまだぶつくさとものを言いながら、釣竿を振った。寝そべったせいで良くは見えなかったが、音からしてかなり遠くへルアーを放ったらしい。釣りには慣れているのだろうか。それともまた彼女の不思議なセンスで、なんとなくできてしまったのだろうか。  穏やかな波の音が船底にぶつかり、私はそれに揺さぶられてまた眠りに一歩足を進める。  五月に入ったこの町は、すでに日差しが出ている今日のような日は、しっかり暖かくなるようになっていた。前回レイカが私の家に訪れた三月中旬、あの頃はまだ雪がちらついていたのに、季節の移り変わりは速いものだと実感する。 「そういえば、ゴールデンウィークなのにお店留守にしてて良いんですか?」  誘っておいてレイカは言う。 「私もそう思ったんだけどね」
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