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序章
「お前さん来年、海外の学会で発表してみないか?」
大学院修士1年の冬、当時お世話になっていた大学の研究室の指導教官であるY先生からそんなことを言われた。
「海外ってどこかですか?」
「オーストリアのザルツブルクだ。お前さんも一度くらい海外を経験しておいた方がいいぞ。」
ザルツブルクと言えば、かの偉大な作曲家モーツァルト生誕の地だ。音楽が好きだった私は、学会のことなど何とも思わず、頭の中はモーツァルトでいっぱいになった。そして、
「ザルツブルクですか。いいですね。行ってみたいですね。」
と適当に返事をしておいた。すると、吉川先生(仮名)はよしよしと言った感じで、
「おぉ、そうか。じゃあ発表できるような結果がでるよう研究頑張れや。」
とまあ、この時は自分が海外に行くなどとは微塵も思っていなかった。第一、この時はまともに学会発表できるよう成果は挙がっておらず、長いトンネルの中を先も見えずに進んでいる状態であった。しかし、申込期限が迫る中、非常に良いデータが取れてしまった。吉川先生は目を輝かせ、
「お前さんやったな!じゃあ、前に言っていた学会に行こう。」
「へっ?どこへ行くんですか?」
「何を 言っているんだ!お前さんが行きたいと言っていたザルツブルクだよ。」
すっかり学会のことなど忘れていた。というか、ちょうどこの時期、私は研究どころではなく就職活動にいっぱいいっぱいであった。
それどころではない。一気に憂鬱な気分が私を支配した。
「あの先生、私は海外に行ったことは一度もなく、パスポートも持ってません。英語だってまったくしゃべれませんよ。」
それは無謀だという意味を込めて教官に言った。しかし、
「大丈夫だ。学会は9月でまだ半年近く時間がある。それまでに話せるようにすれば良いから。さっ、さっそく学会に登録するためにAbstract(要旨)を書こう。忙しくなるぞ。」
この血気盛んな吉川先生は、私の事情などお構いなしであった。その後もお金の問題や、やはり英語の問題など、否定的な発言をし、何とかこの状況を回避したかったのだが、吉川先生の熱意の前にはまったく歯が立たなかった。就職活動の合間を縫って、吉川先生の熱い指導の下、Abstractの作成(もちろん全て英語)に挑んだ。
最終的には、私が書いた文章などほとんど残っておらず、吉川先生の赤ペンで真っ赤にされた文章をそのまま投稿した。意味ないじゃん。
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