第1章

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「あ、すみません。ご注文聞いてなかったですね」 じっと見つめる視線に気づいて、焦ったように秋月が声をかけてきた。黒髪の青年が笑いを零す。 「適当に見繕って下さい・・・・・・ここ、一人でやってるんですか?」 「ええ・・・・・・最近、板前が辞めてしまって」 言いながらも包丁を動かす手は忙しそうだ。ゆっくりでいいよと客から声がかかる。 「薄木ちゃんはねぇ・・・・・・まったくさんざん世話になっておきながらさぁ」 「急に辞めるって、なんだよそりゃって」 どうやら『薄木ちゃん』とは、最近までここに居た板前の名前らしい。 「そう言わないで・・・・・・いろいろ事情があるんだろうから」 秋月が困ったような笑い顔を客に向けた。 「あ、俺の燗!」 後ろでしゅんしゅんと湯気を立て始めたお銚子に、青年が声を上げる。 「あっ」 秋月が慌ててそれに手を伸ばした。 「あぶなっ―――!」 「―――っ!」 カシャンと瀬戸の徳利が床で割れる。慌てて屈んだ秋月の目の前に別の手が伸びて来た。 「あ」 戸惑っている内にぐいと腕を引かれて。流しの流水に指を突っ込まれた。 「火傷しちゃいましたね・・・・・・ごめんなさい。俺が大声上げたから」 指をつかんでいるのは、カウンターに座っていた青年。黒い瞳が心配そうに覗き込んでくる。 「いえ、こちらこそ・・・・・・すみません」 至近距離で見つめられて、秋月が口ごもった。 「葵ちゃん、だいじょぶかい?」 「まぁまぁ・・・・・・気をつけなよ」 口々に言いながら、客がカウンターの中を覗き込んでくる。 「いやあ、颯爽としたもんだねぇ」 テーブル席に居たおばさまの一人が、うっとりした声を上げた。 「あぶないっ!って言った途端、さあっとカウンターを回り込む姿の凛々しいこと」 「あたしがもう十年若かったら、ほっとかないね」 じゅうねん、ですか、と青年が引き攣った笑みを浮かべた。
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