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「ずっと包丁握ってなかったんですけど・・・・・・でも今日は楽しかった」
カウンターに置かれた焙じ茶の湯飲みを取って、青年が視線を落とす。少しの沈黙の後、店の中を見回してぽつりと聞いてきた。?
「・・・・・・ここ、一人で大丈夫なんですか?」
訊かれて秋月が少し困った顔になる。
「親父が死んでから、薄木と言う板前と二人でやってきたんだが・・・・・・彼が急に辞めてしまって・・・・・・」
まぁなんとか、と語尾が口の中で消える。
「・・・・・・俺の事、雇ってくれませんか?」
「え」
意を決したように青年が顔を上げた。驚きに秋月が瞳を瞬かせる。まっすぐに黒い瞳が見つめてきた。
「・・・・・・」
無言のまま秋月が少し眉を寄せた。
「・・・・・・ダメですか?」
青年が落胆した顔になった。
そうですよね、見ず知らずの人間をいきなり、と湯飲みを置く青年に秋月が慌てて言葉を継ぐ。
「いや、そうじゃなくて。君ほどの技量に払えるだけのものが、うちにはないから・・・・・・」
その言葉に、青年の顔がぱあっと明るくなった。
「そんな、お給料なんかいりませんよ!ここ住み込みできますか?」
「薄木の居た部屋が空いているから、それは構わないが・・・・・・」
「じゃあ、それだけでいいです―――包丁が握れれば、それで」
ふっと青年の顔に佩かれた翳のある笑みに、秋月は胸をつかれた。
ずっと包丁を握っていないと言うのには、何か訳がありそうだけれど。悪い人間ではなさそうだという自分の直感を信じてみようと思った。
「じゃあ・・・・・・頼む。俺は秋月葵だ」
「俺、夏目伊吹です」
握手しようと差し出した手を握られて、秋月が戸惑った瞳をあげる。
「夏目くん?」
「さっき火傷したとこ・・・・・・赤くなってる」
指先を唇に持っていかれ、ちろりと舌先で舐められて。秋月の頬に血が上った。あっすみません、と夏目と名乗った青年が慌てて指を離す。
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