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背中を濡らす汗の正体は、恐怖なのだろうか。
しかし、ラストは知っている。この恐怖が、ランに対して湧き出たものではないという事を。
例えるならば、深い渓谷を幼子が身を乗り出して覗き込んだようなものだ。
幼子はその深さに得も知れぬ恐怖を覚え、心を鬼にした母親に抱えられたような――そんな感覚。
自分が死地に足を踏み入れかけたと知り、額から汗を流すラスト。何時の間にか、書類を持つ手が震えて、取り落としてしまっていた。
「……」
無言で紙面を見据え、ラストは心のどこかで感謝していた。
同時に、改めて思い直す。この文面の誰かに会った訳でもない、戦ったのでもない。
だのに、こんなにも恐怖を覚えてしまう怪物が集っている。それが――スタージャ。
――心のどこかで勘違いしてたな。
――俺だったら、ある程度までいける……そう思ってたけど……認めよう。
――俺は、弱者だ。
――まともにやって勝てる相手は、いない。
ずっと、ずっと――自分よりも強い相手と――自分よりも圧倒的に強い怪物と戦ってきた。
ランドに入ってから久しく忘れていた感覚が、ラストの中に染み渡っていく。
「ラン、この書類の中で……Aランクの依頼の中で、最も一番強い奴と戦える仕事を用意してくれ」
「……」
「どうした? 受付としての仕事はしっかりとこなすんだろう?」
「死ぬわ、止めておきなさい」
ランの雰囲気は多少なりとも和らいだものの、自分を射抜く視線に嘘はない。
ならば、彼女の見立てでは、そのAランカーは間違いなく自分よりも強いのだろうとラストは推測する。
そして、それはラストにとって有益すぎる情報だった。
自分が相手取ろうとしている人間は、自分よりも強い。それも圧倒的に。万が一の勝率もないほどに。
「何か勘違いしているようだが……」
それでもラストは笑みを絶やさない。いや、ここで初めて自分が笑っている事に気付きながらも、表情を崩すことはしなかった。
「俺はランドで弱い者イジメを楽しんでた訳じゃない……俺が最も得意としているのは、俺よりも圧倒的に強いって勘違いしている野郎だ」
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