悪食娘

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 ゆっくりと 火車の顔が近づく  ひたり 「っ」  アグリが感じたのは、彼の鋭い牙だった 喉元にそれが添えられ、ざらざらとした舌が這う 「…もし、ご主人が死んだら…」  耳元で彼の声がした まるで言い聞かせる様に 低く、冷たく耳を刺す 「…食べちゃいます」  そう囁き、彼はアグリから体を起こした 「…あっはぁ」 「…っおまえな」  ぱっと 彼の表情が変わる また、何時も通りの彼に戻った 「だって、ご主人死んだらうめられちゃうです」 「…」 「それなら、ぼくが食べたほうがいいです」 「…ああ、そう」  今更ながら 阿呆らしい質問をしたと後悔した  もとより、彼から真面な答えが返ってくる訳が無いのだ それも例え話と言うなら尚更 現実味のない話をしたところで、彼が何処まで理解出来るのか 今までの様子を見ていれば解るものなのに 「…流石に根を詰めすぎているのか…」  額に手を当てて息を吐く そう言えば、最近は彼方此方を廻っているせいで落ち着いた時間が持てていなかった 考える事と言えば、今も衰弱状態のカンナについて それと、彼女等を襲撃した犯人 加えてこの頃様子の可笑しい聖四郎も 彼女脳内を埋めている一部である 「…ご主人?」 「…何でも無い」  額から手を離し、起き上がる 「風呂に入ってくる」 「はい」  言って、アグリはさっさと着替えを済ませると部屋を出た 一人残された火車は、濡れた髪を弄りながら呟く 「…アグリ?」  何か 何かが可笑しい 普段通りの彼女である筈なのに  そこはかとなく漂う雰囲気が変に落ち着いて見えた まるで、嵐の前の凪いだ海の様に
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