196人が本棚に入れています
本棚に追加
いくら待っても、考えていたような悲惨な声は聞こえない。おそるおそる薄目をあけてみて、くりひろげられた光景に瞠目する。
一度は轢かれたかに思えた男が、御者席で馬を操っていた。御者はといえば、ぐったりと椅子の背にもたれている。まもなく馬がとめられた。身軽に御者席を飛びおりて、男はうしろの車の部分へとむかう。
用心したふうに扉にふれる。勢いよくばっと開く。扉とともに、男がのけぞった。中からのびた手がなぐるか何かしたのだろうか。
強盗だ。わかったのに、かなではどきどきして立ちつくしていた。
中にいたのは女だった。紅い袴の裾がこぼれる。未婚の証。まだ若い。きっと、都の貴族かその侍女だ。女の手元で光がまたたいた。短刀だ。短刀で男にやりかえしたのだ。
すごい。
見惚れているすきに、男が体勢をたてなおし、半歩さがった。腰に手をやっている。ああ、いけない。背中をさぐって、短剣を取ろうとしている。
女は片足を立てて身を乗りだしている。男とにらみあっている。じりじりと時間だけが過ぎる。
馬のひづめの音が近づいていた。聞こえたのだろう。前をむいたままで、女が叫んだ。
「カノトどの、どうかお逃げくださいませ!」
馬車ががたりとゆれ、裏側から人影がとびだした。追おうとするのを、すかさず飛び降りた女の短刀がさえぎる。男は短刀をはじき返し、女に当て身をくらわせた。その男のそばに、今度は馬影がさす。馬上の兵士が薙ぎ払うようにした槍をすんでのところで避け、男は地面を蹴り、こちらへやってくる。
馬上の兵士が女を介抱するのを視界の端におさめながらも、自分が傍観者から当事者になりかかっていることにかなではやっと気がついた。カノトとやらも男も、揃ってこちらへむかってきている。
ここにいては盗賊につかまってしまう。間の悪いことに、ふところには森番の用意してくれた路銀まである。
森に戻ろうときびすを返しかけ、かなではいま一度、カノトと呼ばれていた人物を見た。
最初のコメントを投稿しよう!