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 確かに、「なぜそんな」と思うような仕事をしているかもしれないが、子供たちに科学を教えるような日もあって。  決して、世間に迷惑を掛けたり、ならず者のような生活をしているわけではない。そうなのだけれど。  でも、この人は、まるで、ここにいないように見える。俺の目の前に座っているけれど、でも。  鮎川さんは、まるで、どこにもいないような気がするのだ。  裕也や子供たちに向かって、穏やかに微笑んでいた。  俺へと、静かな視線を向けてはいる。  けれど。  誰からも触れられないように、すべてから距離を置いた、遠く離れた場所にいて、よく見えない……。  それは、鮎川さんが、男を愛する男だからなのだろうか。  そんなのは、今の日本では、そうおおっぴらにして言い難いようなことで。結婚だとか、家庭を作るとか。そういったことを諦めて生きなければならないような人生で……だから?  そこでふと、神原の喉に、自嘲めいた苦笑が込み上げる。  じゃあ俺は、どうだっていうんだ? 人のことなんか、あれこれ言ったりできる人間なんだろうか。  違うだろう?  ……結婚だとか、家庭だとか。そんなものを抱えて行くことを、しくじって、手放して、逃げ出したような男なんじゃないのか。  俺だって、避けているじゃないか。  ただ職場でだけ、ごく当たり障りなく人と接してはいても。それ以外は、誰にも触れられないように。  触れられたくなくて……。  神原の指が、前へと伸ばされる。  その指の腹が、聡の髭の目立たない白い頬に、かすかに触れた。 「……神原?」  どうしたの? と、ひどくのんきな響きで、聡が訊ねる。 「なんか、鮎川さんが、ここにいないような気がして、本当に……そこにいるのかなって思って」 「変なの、何言ってるんだい、君?」  くすりと、ひとつ笑って、聡が、神原の指の上に、そっと指を重ねた。  頬と指と、両方で聡の体温を感じながらも、神原の胸にうつろに穿たれた不安は、消えはしなかった。もう片方の手も伸ばして、神原は聡の両頬に触れる。
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