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 遺体の腐敗は、それほど進んでいなかった。索条痕が、まだはっきりと目視できたくらいだ。  猛烈な悪臭と虫害が出始めているにもかかわらず、なかなか発見してもらえない遺体もある。  かつての住人が、その部屋の中で「人型のシミ」になってしまう。  それほどまでに状態が悪化するまで、誰にもドアを開けてもらえない。そんな部屋も多い。  もし「そんな風」になってしまっていたなら、この遺体も、孤独死にありがちな「死因不明」として片づけられてしまっただろうか―― 「見つけてあげられて良かった」と。ただ、そう素直に思えばいいのだろう。だが。 「……一課や鑑識の仕事、無駄に増やしちゃっただけだったかもな」  聡は、そう自嘲気味に呟いてみる。  聡とて、犯罪の隠蔽を望んでいるわけでは、決してない。だが、発見の遅れた多くの遺体の中、事件性のあるものが、はたしてどれだけ見逃されているだろう?   むしろ、今回のように早めに発見されることの方が、少ないのかもしれなくて……。  だがそれは、一刑事や一鑑識員が、個々人でどれほど努力しようとも、どうにも手の届かないこともでもあった。ただでさえ、刑事も鑑識も、常にオーバーワークだ。  自嘲めいた聡の「皮肉」なモノローグは、晴らされることのなかった無念が、おそらくは多々あることを知りつつ、どうすることもできない現実を、諦めとともに悔やむからこその、やるせなさの表れでもあった。  ――神原、まだ一課にいたんだな。  二年ぶり、いや、三年ぶりか。  自分を見つけた時の神原の表情を、聡は思い浮かべる。  濃紺のスーツ姿。  朝からずっと、長時間身に着けたままで、もうかなりくたびれてきたワイシャツの襟を、ネクタイできつく締め上げて、いつも、生真面目に引き結ばれているくちびるが、かすかに開き。  見開かれた目に宿った一瞬の光は、驚きだろうか? それとも、焦り?   少なくとも、嫌悪の表情は、見て取れなかった。  いや、違うだろうか? 僕がただ、そう思いたいだけで?  少しばかり疲れているようには見えた。でも、神原は、ほとんど変わっていなかった――
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