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小一時間ばかり、黙々と作業を続けてから、聡は水分補給のため、手を止めた。
少し秋めいてきたとはいえ、意識してそうしなければ、まだまだ脱水症状を起こす危険もある。
開け放ったはき出し窓の外は、小さな物干し台が、やっと置ける程度のスペースがあって、その横は、すぐブロック塀になっていた。
塀はかなり高く、その向こうにある道は見えない。だが、道行く人々の気配は感じられた。
まだ舌ったらずな小さい男の子が、道を行き過ぎながら、何やら懸命に話す声が聞こえてくる。そして、母親らしき女性の相槌。
内容はどうやら、今、人気のテレビアニメのキャラクターのことらしい。
ペットボトルの烏龍茶を飲んでいた聡の口もとが、ふわりとほどけた。
ちいさな部屋でひとり、世界から取り残されたようにして、ゴミを集め、汚れを拭う。そんな中、ありふれた日常の声が聴こえてくると、それでだけでも、気持ちは、随分と軽くなる。
昨夜見た夢を、聡はふと思い出した。神原と寝た夜の夢だった。
それは、ただ一度だけの行為で。
その夜自体が、夢だったのかもしれないと、そう思えるほどの、うたかたの――
当時の自分自身を、聡は振り返る。
心が荒み切っていた。
仕事には、やりがいを感じていた。本庁の鑑識課に配属になり、自分自身に対しても、何がしかの自信を持つようにもなった。だけど……。
恋人がいた。
まさに、「血道を上げていた」と言っていいほどに、僕は彼に夢中になっていた。
彼は、近づいてはいけない種類の人間だった。絶対にそうすべきではなかった。
最初に会った時は、僕は何も知らなかったのだ。
彼のことも、そのことが引き起こす、本当の怖さも――
でも、それが解った時には、もう手遅れになっていた。僕は、すっかり深みにはまってしまっていた。
彼の心の方が先に、僕から離れていった。いや。
最初から、彼の心は僕になどなかったのだ……たぶん、きっと。
夜の街で、彼に縋り付き、邪険にされ、振り払われ、僕はよろめいて、雨の中、道に倒れこむ。雨粒と涙で滲む視界の中、僕は、遠ざかっていく彼の背中を見つめていた。
そんな、バカみたいに、みっともなくも惨めな愁嘆場を見られていたのだ。
神原に――
そっと傘を差しかけられ、見上げると、そこには、ひどく生真面目にくちびるを引き結んだ神原の顔があった。
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