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聡が百十番通報をしてから、交番の警察官が自転車で駆け付けてくるまで、ものの五分とかからなかった。けれども、その先、物事は、まるでスムーズには進まなかった。
「えっと、ですね、鮎川さん……っておっしゃいましたか。あなた、こちらの一○二号室の方とは、お知り合いか何かで?」
どう見ても二十歳そこそこといった風情の巡査は、到着してからずっと、聡に対し、要領を得ない質問を繰り返していた。
「いえ。違います、知り合いではありません」
「こちらのアパートにお住い……っていうのでも、ないんですよね」
「住んでいません、単なる通り道です」
聡は、忍耐強く穏やかに答え続ける。
巡査の制服のシャツの布地には、まだハリがあった。
――おそらくまだ、配属直後だな。聡はすぐに、そう察し取った。
「あの、じゃあ、こちらの部屋の方は、単にお留守なだけじゃないでしょうかね? 両隣の方も、特に不審な点はないって……」
「そうかもしれませんが、ともかく、中を改めてもらえませんか? この『匂い』からすると……明日には、ずっと状態が悪化してしまうはずですから」
あまりに杓子定規で消極的な巡査の対応に、聡はたまらず、少々語気を強める。すっかり神経が研ぎ澄まされてしまって、甘く淀んだ匂いが、もう鼻について堪らなかったのだ。
「しかしですねぇ、上の階の方も、『匂い』なんて何も感じないって言ってますけど」
そして巡査は、「まあ……合鍵をお願いしてきますよ」と、非難がましさを滲ませた声色で言い捨て、やっと、管理人室へ向かって行った。
*
「でさ、なんか変な話なんだよ」
神原が運転する捜査車両に同乗してきた岩代が、さっそく助手席でお喋りを始めた。
「……何がだ?」
一応、そう訊き返しはしたものの、神原は岩代の話に、さほど興味をそそられたわけではない。
「それがさ、神原。今、庁舎出る前に機捜の知り合いから、チラッと聞いたんだけどな。今回の件、第一通報者ってのがな。そのアパートの前を通りがかった時に、『匂いがする』とかって、百十番通報したらしいんだ」
「それで?」
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