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 ふと、神原が手にしている本に、聡が目をとまる。  昇進試験用の参考書だった。 「え? 神原、ひょっとして君、今もまだ、巡査部長?」  神原の表情が、露骨にムッとする。  聡が、慌てて謝った。 「あれだね、一課は相変わらず、『上』がつかえていて、推薦が下りないんだろう? 鑑識(うち)と違ってさ」  「日々、事件に追い立てられていて、試験準備などする暇がない」などと言って、特に一課あたりは、「適齢期」になっていても、なかなか昇進試験を受けたがらない刑事が多い。「先輩」が受けないのに、同じノンキャリで、下の年次の者が先に試験を受けるというのも、出来ない訳ではないが、なかなか手を挙げにくいところではある……。  聡が言わんとしたのは、つまりは、そういうことだった。 「まあ、そうは言っても、こっちも、そうそう、待ってもいられないですから」  神原が、思わず本音を口にする。 「……ごめんよ、部外者が、口の悪いことを言ったね」  あらためて詫びて、聡が寂しげに微笑した。  そして、「だいたい僕だって、人のことなんて、何も言えたものじゃないな」と、突き放すような口調で続ける。 「警察辞めて、三年……僕も、来年は四十になる。もう、『不惑』ってヤツなのに」  聡は、小さく肩をすくめてみせた。 「こんな、その日暮らしみたいにフラフラとして、一体何をやってるんだか」  聡のそんな言葉を聴きながら。  神原は目を伏せて、目の前のお茶のグラスが、薄く汗をかいていくのを、黙ってじっと見つめていた。 *  一体……なんなのだろう。  神原は、テーブルに落ちゆくグラスの水滴を眺めながら考える。  なんでこの人は……鮎川さんは、なぜこんなに。  何もかもから、遠ざかっていようとするのだろう。  いや、別に……ひどい暮らしをしているとは言わない。
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