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翌日の朝、春樹は町田健一郎の調査にあたる前に、美沙の病院にちょっとだけ顔を出すことにした。
バスを降りると、たいして資料も入っていないファイルケースを抱えながら、春樹は病院前でいつものようにちょっとだけ気合いを入れた。
若い女性ばかりの四人部屋にいる美沙を見舞うのは、春樹にとって、けっこう気まずいものだったのだ。
青い顔でTVを眺めている見知らぬ女性の横で、これまた点滴につながれたパジャマ姿の美沙を前に、何を話したらいいのか分からない。
ソワソワする春樹に、美沙はいつも「もう、来なくていいのに」と苦笑するのだ。それでも、春樹は必ず見舞いに行った。
行って何を話すわけでもないのだが、春樹が顔を見せたときに一瞬見せる、あの笑みがどうしても見たかった。仕事の時は、決して見れない表情なのだ。
美沙の病室があるフロアのナースステーションをちらりと覗くと、顔なじみになった看護師が笑いながら手を振ってくれた。
軽く会釈をして通り過ぎた春樹だったが、少し行ったトイレの前で、珍しい人物の背中を見つけ、ドキリとした。
高身長でスレンダー。ほんの少しロマンスグレイの入ったその後ろ頭は、誰のものかすぐ分かる。
「立花局長?」
春樹が声を掛けると、立花聡はハッとしたように振り返った。
「ああ、春樹君。君も美沙ちゃんのお見舞い?」
その口元から誰からも好感を持たれそうな穏やかな笑みがこぼれた。
関東にいくつも支社を持つ、立花フランチャイズ探偵社のトップ。社長ではなく、親しみと敬意を込めて皆が「局長」と呼ぶ、立花聡その人だ。
弟である薫同様、よく美沙と春樹の鴻上支社にふらりと立ち寄るが、なぜか聡が来た時だけ春樹はソワソワする。
美沙の目が、話し方が、笑顔が、心なしかいつもより華やいで見える。薫に対するフランクなものと違う、特別なものを感じていた。
美沙が尊敬する局長なのだからと割り切っているはずなのに、それでもザワザワとしたものが春樹の心臓あたりでうごめく。春樹自身、その不快で不可解な感情にいつも戸惑わされていた。
その「戸惑いの元」が今、少しばかり不安げに春樹の前に立っている。いつも聡明で堂々としている局長らしくもなく、見知らぬ土地で迷子になった子供のようだ。
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