第32話 眠る少女

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それから二日が経っても、ミカはまだ目を覚まさなかった。 羅絃は、病室のドアからミカの手を握るアキラの姿を見つめる。 「ミカ……」 アキラは、寂しげな、苦しげな声で眠ったままの少女の名前を呼ぶ。 「………………」 龍から聞いたところによると、仕事はこなすものの寝食を一切摂っていないらしい。 このままじゃ、あの人まで倒れるぞ。 このところのアキラさんは無理をしすぎだ。 そのせいか少しばかり窶れたように見える。あんな弱ったアキラさんを見るのは初めてだ。 龍さんや聖さんが何を言っても『大丈夫だ』の一点張りで聞かねぇみてぇだけど、アキラさんが倒れたら自分を責めるのは海原なのに。 「……アキラさん」 声を掛け、アキラとミカの元に近寄る。 「羅絃。来てくれたのか」 「はい……」 振り向いたアキラの目の下には、うっすらとクマができていた。 無理をしているのは一目瞭然で、『大丈夫ですか?』と訊くのは野暮だった。 チッ…チッ…チッ…と、秒針が進む音だけが病室に響く。 いつもなら気に留めることすらしないその音が、今はやけに煩わしく感じた。 ふと、サイドテーブルに目をやると、十五㎝ほどの大きさの花瓶が置かれている。 花瓶を手に取り、生けられた花を見つめる。 あれ?花なんて一昨日はなかったよな? 「…この花って、カモミールですよね? たしか、アキラさんが香水でつけてるのと同じやつの。 どうしたんですか?」 「ああ、それはミカが好きな花で、昨日持って来たんだ」 「…へぇ……。そう、なんですか…」 アキラさんは、こんな小さな事でも海原のためなら動くのか。 気持ちが翳って、いつものように返事ができない。アキラは何も悪くないのに、なぜか邪険になる。 なぜと理由を考えて、すぐに分かった。 それだけこいつのことを想っているということを、アキラさんがこいつのおかげで変わったのだということを、認めたくはないのに認めざるを得なくなってしまう。だから嫌なのか。 当初の頃のように、不釣り合いとか弱いとかは思っていない。 けれど、アキラさんの横に並ぶことがあたり前になってしまうことを考えると、それは癪だった。 「…俺、花瓶の水換えてきますね」 「あぁ。ありがとう」 花瓶に入っていた水を捨て、蛇口を捻る。 流れ出てくる水を見つめながら、ぼんやりと考える。 俺、何イラついてんだろう。 あの人が変わったのはだいぶ前からなのに、何でこんな喪失感を感じてるんだよ。 自覚がなかっただけで、そんなに以前のアキラさんの方が好きだったってことなのか? 答えが出ねぇ問題って、何でこんなにイラつくんだよ。 「ハァ…。 とりあえず、もう戻らねぇと」 いまだに分からない問題の答えは放棄して、花瓶に水を入れる。 小さな花瓶は、あっという間にいっぱいになった。 「カモミール、か……」 アキラさんと海原が好きな花。 花言葉は確か────『苦難の中の力』。 「………あの二人にぴったりの花言葉だな」 ────コンコン。 病室のドアをノックして中に入る。 病室には誰もいなかった。 アキラさんがいねぇ。トイレか? サイドテーブルにコトンと花瓶を置くと、目を閉じ続けているミカの顔をじっと眺める。 「……………」 どうしてか、アキラのように強いと感じたあの瞳とバカにはできないと知ったあの背中を思い出し、無性にもう一度見たいと思った。 だから、早く…。早く起きろよ、海原。 いつまで寝てるつもりだ。 お前は、 「お前は、こんなことでくたばるような奴じゃないだろ」 しかし、その次の日だった。 ミカの容態が急変したという連絡が入ってきたのは──────……。 立ち上がって見渡した場所は、先ほどまで歩いてきた一本道ではなく、すべてがまるでドライアイスの煙のように真っ白な場所だった。 足元を煙が流れる。けれど、その煙は冷たくも温かくもなかった。 この煙、まるで川みたい。 そして、川のように流れる煙より一段と濃い霧が、橋のように“向こう側”まで続いていた。 橋は目算で二十mほど。その“向こう側”に人が立っているのが見える。 よかった。私以外にも人がいたんだ。 あの二人なら帰り道を知っているかもしれない…! 人がいたという安堵と帰り道を知ってくれていることを期待しながら、ミカは声を掛けるためにその橋を渡ろうとした。
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