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代わりに,八柳が片方の手に布手袋をはめて新しい端末機にそっと触る仕草を,なんか優雅だな,と思った。更にはその白い布手袋を外して現れた手を,なかなか綺麗じゃんとガン見した。
自分の手元に真新しいスマホを握り,いよいよ契約完了,という段になって俺は言ってみた。
「俺さぁ,いろんなIDとかパスワードとかよく忘れるんだけど,どうしたらいい?」
「あぁ,それは…」
少しだけ営業フェイスが影を潜めて,ほんのちょっぴり親しい感じが声色から感じられた。
「自分だけが知っていて絶対忘れないような文字と数字を組み合わせて,あとはそのアプリの…」
「ふんふん,なるほど,思い出しやすいな,それ」
「そして,こうやって…」
八柳はメモ用紙に表を書いてそこに記号を書き込んだ。
「…メモしておくといいですよ。携帯ケースに挟み込んで…」
「なるほど!これだとすぐに見られる!いや~何でこれ思いつかなかったかな~」
「ただ,無くしたり他人に見られないようにお気を付けてください…」
「ああ,てか,ゲームのIDとか,そんな大したもんじゃないしな」
「それから,登録したIDを管理するアプリが…」
「そんな便利なものがっ」
俺は大満足だった。欲しいものが全て手に入ったような,これから新たなスマホライフが手に入るような,ひとつ大人になったような気分だ。ゲームでも前より高得点が得られそうな気がする。
全てはこの目の前の,痩せて額がちょっと広いヒョロ男くんのおかげ,と感謝の気持ちまで生まれた。
大人しいのにここぞというところでかゆいところに手が届くような店員だな,こいつ。気に入ったぞ。
八柳が紙袋を持ち,車まで持っていく,と言う。外に出ると空は暗かった。閉店時間が近い。
「いろいろと助かったよ,八柳君。お礼におごるから飲みに行かないか?」
「えっ?は?…あ,いえ,そのようなお気遣いはご不要です」
「いいじゃん,俺があんたと飲みたいの。仕事はけたら行こうよ」
「あ,あの,お客様とはそういった個人的なお付き合いは禁じられておりまして…」
「えwww」
クラブとか居酒屋で綺麗なお姉さんに声をかけたときによく貰う返事だった。
「そか…んーじゃ,またな」
「どうも本日はありがとうございました」
八柳は深々とお辞儀をし,俺が車に乗り込むのを見届けて店に戻った。後ろ姿もヒョロっとしていた。
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