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ハンガーに掛かったダウンコートを引っ掴むと、車の鍵を取って、スニーカーを突っかける。
日はとっぷりとくれていた。恐らくはバスで駅の方に向かったのだろうと、当たりをつけて車を走らせる。バスの本数は多くない。
運が良ければ、まだバス停で待ってるかもしれない。
だが、田園風景にぽつんと立つバス停に、人影はなく、圭介はそのまま車を走らせる。
(もう、駅に行っちまったか)
のろのろ運転の市バスなんて、追い抜いて、ロータリーで待ってればいい。そう決意して、アクセルを踏み込む。だが、夕暮れの商店街、不似合いなスーツケースは、もっと手前で見つかった。
「茅夏」
車内から妻の名を呼んで、徒労と知って、クラクションを鳴らす。そしてすぐさま、路肩に車を停めた。
「ごめん」とか「俺が悪かった」とか「帰ってきてくれ」とか。
幾つも謝罪の言葉は用意しておいたが、状況がそれを許さなかった。
片側一車線の狭い道路で、対向車線もひっきりなしに往来してる、夕方のラッシュ時。後ろの車は、圭介の車がどかないと、動けない。
焦った圭介は、意に反して命令口調になってしまった。
「早く乗れ」
ぽかんと夫の顔を不思議そうに見つめてた妻は、だけど、意地を張って嫌だとか帰らない、とかは言わなかった。
ぽすんといつものように助手席に預けられた身体に、心底ほっとする。
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