おかえり

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「ただいまー」 そう言って僕は、誰もいない、しんと静まり返った家に挨拶した。返事を返してくれないことなんてわかってる。でも、小さい頃からのくせで、帰ってきたら必ず言う。まだ夕方の6時半過ぎで、電気はついていなくとも、この家の特徴的な広い玄関は、大きなガラスの窓から西日がさしてうっすらと明るくなっていた。玄関のすぐ前には和室があって、そこには、ピアノを習い始めた幼い頃の僕のために祖母が買ってくれた焦げ茶色のピアノが、緑色の絨毯の上ある。僕はさっそくふたを開け、布をとって無造作に丸め、ピアノの上に軽く積み上げられた楽譜の上に置いた。鍵盤は夏でもひんやりしている。 ピアノをやめた今でも、小さい頃からずっと弾きたかったドビュッシーのアラベスク第一は、中学校の時、発表会で演奏すると決めた日からずっと弾き続けている。僕は決して上手い方ではないと思うが、自分なりに表現をつけて楽しく引いている。恥ずかしながら、当時はこれでコンクールに優勝できるのではないかといつまでも本気で考えていた。 「素晴らしい演奏だわねぇ!けんちゃんだったらプロにだってなれるわ!そうよね!」 祖母が、新聞を読んでいる祖父を無理やり連れてきて、とても嬉しそうな顔をしながら手を叩くものだからつい調子に乗っていたあの頃。祖母は近所の人に僕を自慢していた。僕が将来プロになると言い張っていた。流石にそれは恥ずかしかった。そして、祖母に甘やかされて育っていった頃からもう十年以上もたってしまった。先日、祖母は他界した。今ではもう、隣の部屋は客室になっている。昔あったコタツや、大きな鏡のついた化粧だなはもう片付けられてなくなった。西日が柔らかにさしこむ障子の白い和紙をぼやっと見つめていると、不意に目がじんとなって頬に涙がつたう。 「おばあちゃん…」 最後の鍵盤から手を離して、ペダルからゆっくりと足を上げると、ふと、障子の向こうから聞こえた。 「おかえり。上手になったわね」 確かにおばあちゃんの声がした。 「うん…」 「じゃあ、おばあちゃんちょっと出かけてくるから」 昔、よくそう言って近くの八百屋に行ってたよね。 「…いってらっしゃい。」 小さかった僕は、おばあちゃんがそう言うとどこかに行ってしまうんじゃないかって少し不安だった。 「はい。いってきます。バイバイね、けんちゃん」 抑えきれなくなった声は、涙とともに一気に手のひらへ溢れた。
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