第四部/担当編集×小説家⑪<6>

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* * * 「相楽さんは天然の俺たらしですよね」 「……え? たら?」 佐谷さんより先に体を洗わせてもらっていると、湯船に浸かる彼の口から聞き慣れない言葉が飛び出した。 ボディタオルを滑らせるのを止め、とりあえず一度佐谷さんに向き合って何を言われたのかを聞き返す。 青く染まったお湯の色は、クールタイプの入浴剤の色らしい。 佐谷さん曰く、夏はこれが欠かせないのだそうだ。効き目があるかどうかは、分からないらしいが。 「僕がたら? 何ですか?」 「俺たらし、ですよ。そのままシたいって言ったり名前を呼ばれたいって言ったり、いったいどこでそんなことを覚えてきたんだか」 「あ、あれは……っ、佐谷さんが、僕に」 「俺が、相楽さんに?」 「な、何でもないです……。そのことは今は良いんです。忘れてください」 「逃げましたね、今」 「に、逃げてなんていません! あれはその……あの時だから言えただけです。今はそういう時ではないので」 「まあ……、そういうことにしておきますか」 じっと見てくる視線はそのままに、佐谷さんは改めて体を沈めると少し温くなった浴槽にお湯を足す為に、利き手とは反対の手で蛇口の栓を捻った。 浴室の中は部屋に比べると狭いので、眼鏡なしでもシャンプーやボディソープの文字はなんとか読むことができた。佐谷さんが使っているものはドラッグストアでも手に入る一般的な香りのものらしく、アクアソープと名が付くだけに爽やかで軽い清潔感のある香りだった。 泡立てたボディタオルを首に当て、まだ洗っていない部分から手の動きを再開させた。首の次は肩、腕、胸と背中の上半身から、腹と腰にかけての下半身、太腿、ふくらはぎ。最後に足の指まで辿り着くと、その様子を黙って見ていた佐谷さんが頃合いを見て蛇口を締めた。 「相楽さんは首から洗うんですね」 前屈みになっていた体を、話を聞く為に再び起こす。 見ると、佐谷さんは浴槽の縁に肘をついて掌で頬を支えていた。 「相楽さんは、知っていますか?」 「……? 何をですか?」 「お風呂に入った時にどこから洗い始めるかによって、その人の性格が分かるんです」 「えっ、そうなんですか?」 佐谷さんは時々こうして、自分が持っている雑学などの知識を僕に披露してくれることがある。 よく覚えているのは、一年程前にフライパンの洗い方について教えてもらったことだ。あの頃はまだ佐谷さんへの苦手意識が非常に強く、彼の目の前で食事をするのも『罰ゲーム』などと言って逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。 そんな佐谷さんからの新しい雑学。今度はいったいどんな内容だろう。
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