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佐谷さんは手を止めると僕の上半身と足元に目を遣り、ほっと安堵したように眉を下げる。
袖が若干長く見えるのは、肩と胴のサイズが合っていないからだ。
穿いているハーフパンツも腰回りがやはり大きい。
「良かった。机の上に置いていた部屋着、気付いてくれたんですね」
「は、はい……。わざわざありがとうございます」
「いえ、とんでもない。比較的小さいものを見繕ったのですが、生憎それが一番タイトで」
「そんな、大丈夫です。僕も次からは着替えを持ってくるようにします」
「持ってこなくても置いておけばいいですよ?」
「そ……そう、ですね。佐谷さんが言うなら、お言葉に甘えて」
案の定、話がどうしても巻き込まれてしまう。
コミュニケーションに関しては佐谷さんの方がずっと上手だ。
肝心なところで僕はもたもたしてしまい、本題についてなかなか言い出すことに苦労する。
そうこうしている内に、ボコボコ音を立てていたケトルが沸騰の合図を出し、赤く光っていたランプが自動的に消灯した。
佐谷さんは待ってましたとばかりに踵を返し、ハンドルを握ってお湯を注ぐ。二つのカップからはコーヒーの良い香りが漂った。もう、時間がない。
「さあ、出来ましたよ相楽さん。これを飲んだら朝食の準備も始めましょう」
「佐谷さんっ」
カップを持ち上げる彼の歩みを制止させ、僕は俯き加減でその前に立ち塞がった。
覚悟を決めて、言わなければいけない。
今言わなければ、後には絶対に言えなくなる。
「佐谷さん、あの……昨日のこと、なのですが……」
ドキドキと騒ぎ出した心臓を押さえ、閉じそうになる唇を無理矢理に抉じ開ける。
「昨日の、佐谷さんが、言っていた」
「俺が言った……? あっ、えっと、それって嫉妬のことですか? 昨日はその、すみません本当に。長々と話を聞いてもらって、俺ならもう大丈夫ですから」
「そ、そうじゃなくて。そのことでは、なくて……」
今も耳に残っている。
ハッキリと、強く。聞き間違いではなく、正確に。
クラクラと揺れる意識の中で、佐谷さんが背中に覆い被さってきたのも覚えている。
佐谷さんから与えられる快楽に溺れながら背後からでも抱き締めてくれることが嬉しかった。噛まれた首の痛みすら気持ち良く、彼の息遣いを愛おしく感じた。そんな、直後に。
「昨日、佐谷さんが、僕を呼んだ呼び方です」
「……っ」
「『樹月』って、あの時、耳元で言いましたよね?」
枕を掴む手に力が入っていた。
流れる汗と涙は、彼の匂いのする布地へと少しずつ吸い込まれていき、それでも受け止め切れなかったものは髪や額をしっとりと濡らして僕はそこに埋れることで精一杯だった。そんな最中に。
『――樹月』
『……ッ!』
言われた刹那はその声を疑い、幻ではないかと自分に尋ねた。
しかしそれは、幻ではなかった。
確かに自分の耳で聞いたのだ。
普段彼が僕を呼ぶ時のものではない。これまでに一度も呼ばれたことがない。それは他人行儀でも敬語でも何でもない、僕という個人に向けられた僕だけが持つ唯一の名前。
「どうして……あんな……」
シャツの下にある肌が熱を帯びて汗を滲ませる。
「あのタイミングで呼ばれたら、僕は」
体が熱い。呼吸が短く、胸が苦しい。足の裏までしっとりと汗で濡れ、それは掌も同様だ。一度思い出してしまえば、繰り返し頭の中に蘇る。
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