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我慢できずに左右の脇腹を強く掴むと、シャツに幾つものシワができて手の中に生地が余る。
佐谷さんに伝えるなら今しかない。
今じゃなきゃ、僕はきっともう言えない。
「あなたに呼ばれたあの声が、嬉しかったんです」
もうそこには入っていないのに、突かれている時のように下半身が繰り返し疼く。下着の前もキツくなっていた。僕は、ただ、そうして欲しいと望んだだけで、
「佐谷さんにまたあの名前で、セックスの時に呼んで欲しいって言ったら……また『樹月』って、呼んでくれますか?」
佐谷さんと今すぐシたいと気持ちが昂ってしまった。
その場に立っていられなくて、座り込んでしまいそうだった。
全身がヒリヒリと熱い。まだベッドから出てそんなに時間が経っていないのに、今は夜ではなく朝なのに、こんなのはまるで自分が彼に発情しているみたいで恥ずかしい。
けれど、『みたい』ではなく『そう』なのだ。
下着の中に手を入れればすぐに分かる。この汗も、自分が吐く息も、全部それらは体の変化を証明していて流石の僕も自覚せずを得ないと思わされる。
『樹月』はもう、僕の中で限られた時にしか言われてはいけない呼び方になっていた。それは相手が佐谷さんに限ったことで、佐谷さんが僕を下の名前で呼ぶのは彼とセックスをしている時。その時にしか、呼んではいけない。
「さ……相楽、さん」
カップを置いた佐谷さんの手が、僕の体を抱き締めた。
首筋から僕の好きな匂いがした。それはベッドの中でも感じていた匂いで、抱き合った時にもあてられていた媚薬のような彼の匂い。
「覚えていたんですね、それ」
抱き締められる手に腰を触れられ、膝から崩れるくらいに限界だった。
「朝になったら相楽さんは忘れているんじゃないかと思っていたのですが」
「忘れませんよ、そんな……」
初めて顔を合わせた時からずっと『相楽さん』だった。
編集者として作家を呼ぶ時の名前、担当として僕を呼ぶ時の名前、お付き合いを始めてから恋人として僕を呼ぶ時の名前、ベッドの中で互いを求めて肌を重ねる時に呼ぶ僕の名前。
彼に呼ばれる名前は、どれもいつだって心地良い。
驚いた言い方、少し怒った言い方、慌てた言い方、申し訳なさそうな言い方。良いことがあった日には、とても嬉しそうに呼ばれることもあった。楽しいことがあった日は楽しそうで、悲しいことがあった日は悲しそうで。それらは全て僕が好きなものには変わりなく、どんな日の佐谷さんであっても名前を呼んでくれるのが嬉しかった。
『相楽さん』だけが、彼が僕を振り向かせる唯一の方法だと思っていた。
でも、そうじゃないと教えたのは、僕ではなく佐谷さんだ。
「あなたにそう、呼ばれたいんです」
昨日から僕は、いつもと違う。
自分から動かなければと決心して合鍵を持ってここへ来てから。
佐谷さんの話を聞いて、佐谷さんに自分からキスをして、佐谷さんにゴムを使わないセックスを求めて、佐谷さんに名前で呼ばれてから。
「佐谷さんにとっての、もっと特別になりたい。あなただけの僕になりたいんです」
作家なんてことは脇に置いてしまいたかった。
ただの恋人になりたいと、少なくとも二人きりで過ごす時だけは僕をそう思って欲しいと、知らなかった新しい感情がまた心の中に芽生えたのだ。
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