第四部/担当編集×小説家⑪<6>

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自分が送ってきた学生生活に後悔しているわけではないけれど、監督さんとの話、部活での話、自分にも何か同じように話せることがあれば良いのに、ほんの少しだけ時間を元に戻せればいいのにと空想じみたことを思った。 「どうします相楽さん、行きますか?」 「えっ、ぁ」 「観に行ってやれば弟もきっと喜びますよ。何せ、二年生でレギュラーを獲得してますからね」 「さ、佐谷さんが、そう言うのであれば」 「決まりですね。弟にも連絡しておきます。あっそうだ……ちなみに弟は理玖っていいます。理科の『理』に久しいに漢字の王を付けて『理玖』。あと姉は……必要があれば追々」 「理玖くん……良い名前ですね」 「ありがとうございます。本人が聞いたら喜びますよ」 ただ、あいつは教科書以外の本は読まないので、相楽さんのことはあまり知らないかもしれませんが。 苦笑いする顔が微笑ましかった。 こうして佐谷さんが家族の話をしてくれるのが嬉しくて、まだ実際に会ってもいないのにまるで目の前に弟さんがいるような感覚がし、温かい親近感のようなものが胸を満たした。 「では相楽さん、後ろを向いてください。髪を洗わせていただきます」 「お、お願いします」 シャワーのお湯が顔にかからないように配慮しながら、佐谷さんは僕の髪を念入りにすすいで手に取ったシャンプーをしっかりと泡立てた。 人に髪を洗ってもらうなんて、美容院で髪を切ってもらう以外にはそうそうあることではない。大きな手で髪全体に泡を行き渡らせ、指の腹を使いマッサージするように丁寧に頭皮を包み込む。 背中から伝わる佐谷さんの優しさが、より一層心地良さを増幅させた。 僕はすっかりリラックスして目を閉じて肩から力を抜いていると、不意に目の前が暗くなり柔らかいものが唇にそっと触れた。 「さ、佐谷さ……」 「相楽さんが油断しているから、ですよ」 仲良く二人でお風呂に入る、という時間は何と短いことだろう。 髪を洗うと言ったのは嘘だったのか。泡の付いた手で体ごと正面へ振り向かされると、今度は一度だけでなく二度三度と繰り返しキスが降ってきた。 この流れはダメだ。頭がクラクラしてきて、じきに何も抵抗できなくなる。 そうなれば、あとは自分がどうなるのかは昨日から何度も同じことを繰り返していることで十分学習できているし、想像することだって非常に容易い。 髪に含んだままの泡はどうするつもりなのだろう。 このまま気にせず続けるつもりか、そこは洗い流してから続けるのか。 そんなことを頭の隅で考えていると、佐谷さんの舌が口の中へ入ってきて僕は自分の舌を喉に向かい引っ込めた。 ささやかな抵抗をしたところで、佐谷さんにはきっと全てお見通しだ。 あとは洗い場で触れられるのか。それとも、湯船の中へ誘われて彼の膝の上を跨ぐのか。 どちらにせよ、佐谷さんとのセックスが恋人同士の至極当たり前の触れ合いなのだという認識へ変わったこと、その回数についても然程気にするものでは最早なくなっていることを、もう言い訳せずに肯定する以外に他はない。 佐谷さんが僕を特別だと想ってくれるなら、僕も佐谷さんを特別だと想う。 その結果がソファでの行為であり、ベッドでの行為であり、キッチンでの行為であるなら、浴室で行う行為だってきっととても気持ち良いに決まっている。 「相楽さん、……先に髪、流してからでもいいですか?」 「それ、は……もちろん……」 シャワーのお湯は髪に含んだシャンプーの泡を綺麗に僕から洗い流し、そのまま手を引かれるカタチで佐谷さんの待つ湯船の中へと誘われた。 逆上せてしまうのは浴槽のお湯と、佐谷さんとの行為と。 掴まるように促され、回した腕で佐谷さんの肩に抱きつく。お湯の中でスるのも、今日が初めてだ。キッチンでの初めてと比べどちらがより気持ち良いのだろうと、僕は彼に期待せずにはいられない。 より密着度を上げる為に、脚を大胆に開いて彼に見せつける。 首から先に洗う人は何だと言っていたっけと、そんなことを考えながら。
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