第一部/担当編集×小説家①<1>

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* * * 都心から電車で四十分ほど離れた郊外に僕の住む街があった。 沢山の人が集まる海の見える公園、川の両端に植えられた桜並木、大通りには黄金色に色付くイチョウが続き、広い土地を利用したグラウンドでは週末になると地元の小学生や中高生による野球やサッカーなどの練習試合や大会が行われている。 整備された散歩道を辿ると穏やかに吹く風が髪を揺らしとても心地良い。ペットを飼っている家庭も多い為、小型から大型まで犬と共に散歩を楽しむ人もよく見掛ける。 一人暮らしをはじめて六年。最寄り駅から徒歩十五分の五階建てのマンションが僕が住んでいる部屋だ。四階の南に位置した角部屋。日当たりもよく風が通るこの部屋を見つけられたのは、とても幸運だったと思っている。マンションから駅へ向かって歩くと、商店街や病院などひと通りのものが揃っておりとても便利で住みやすい。中でもお気に入りは、朝七時からオープンしているパン屋さんだ。食パンとクロワッサンが非常においしく、早く目が覚めた日は朝食用に買いに出掛けている。 ベッドタウンとして都心の大学や企業に通う学生や家族が多いこの街。昼も夜も比較的静かで落ち着いたこの街の雰囲気が、僕はとても好きだ。 パソコンに向かって出版社から依頼された原稿を書き進めていた。 雑誌の連載が二本、コラムが一本。他に、執筆途中の長編原稿を一本と文学賞の選考委員の仕事を持っており、来月には半年分の連載をまとめた新刊が発売されると担当が言っていた。 執筆方法をデジタルに変えたのはここ二年ほどのことだ。それまではずっと紙とペンを利用しており、出来上がった原稿を出版社に渡し、データ化されたものを確認する方法を取っていた。 デジタルは正直、あまり得意ではない。自分の字で綴り、自分の字で訂正する。紙の手触りとインクの匂い、紙をめくる音と文字を書く時に生まれるペン先が机を叩く音。それら全てが一つの世界であり、執筆という行為が生み出す芸術だった。利き手の中指に出来たペンダコは自分が物語と向き合ってきた情熱と歴史の証のようなもので、人が字を書くという行動以上に美しく素晴らしいものはないと僕はずっと思っていた。
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