第一部/担当編集×小説家⑥<4>

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「制服を着ていたその人は、どこかの高校の学生でした。その人のことは、名前も学校もどんな声をしているのかも知りません。話したことも声を掛けたことも一度もなく、ただ分かっていたのは毎日同じ時間の同じ電車、同じ車両に乗っていて、俺よりも先に降りていくこと。俺はその人のことがずっと気になっていて、気付かれないようにいつも離れた所から見ていました」 差し込む光に透ける髪。眼鏡をかけている色の白い横顔。 いつもどこか遠くを見ていて、つり革を持つ手は男にしては比較的細い。立ち姿を見てもとてもスポーツをやっているようには見えなくて、まるでどこか違う世界から来たような独特の雰囲気を持った想い人。 「一年半が経った頃、ある日を境にその人は電車に乗ってこなくなりました。高校生だった俺は尚も毎日その電車を利用していましたが、それでもその人は現れなかった。そして、暫くして気付いたんです。その人はこの春で高校を卒業してしまって、もう二度と会うことが叶わなくなってしまった人なんじゃないかと」 「そんな……」 「どうして思い切って声を掛けなかったんだろうと、とても後悔しました。春が過ぎても、夏が終わっても、毎日そればかり考えていて、大学に入ってからも何人かと付き合いましたが、その人のことが忘れられず結局どれも長続きしなかった。俺は自分が思っていた以上にその人のことが好きで、きっとその人に強く惹かれていたんです。話したこともない、その人のことを……」 「佐谷さん……」 見ていることしかできなかった。 行動する勇気が持てなくて、何もしなかったばかりに手の届かないところへいってしまった。 あの時こうしていれば良かったといくら考えたところで、起こってしまった事態は決して覆ることはない。 過ぎた時間は戻らないし、抱いた後悔が消えることはない だからもう、同じ失敗は繰り返さないと決めた。 手に入れたいと思ったものは、それが例え無茶だと言われようとも声を上げて手を伸ばす。後ろ指を差されようとも、自分が『必要』だと思うことなら怯むことなく前へ踏み出す。 やらなくてする後悔よりも、やってする後悔なら納得することができるから。
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