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「佐谷さんは、お昼は?」
「俺はもう済ませました。来る途中にパンをかじったので……あ、ここ失礼します」
テーブルにはもう一脚イスを置いていた。向かいにあるそれに腰を下ろすと、佐谷さんは手帳やらペンケースやらを鞄の中から取り出しテーブルに並べる。
僕は電気ケトルに水を入れてお湯を沸かし、インスタントコーヒーの瓶に手を伸ばした。お昼はパンだけだろうかと疑問に思ったが、だからと言って彼に用意する茶菓子などは何もない。ブラックしか飲まない彼に熱いコーヒーを淹れると、どうぞと小さく言って正面に差し出した。
「食べないんですか?」
「え?」
「途中なんでしょう。俺に構わず全部食べてください」
「あ、えっと」
仕事をしに来た相手を前に、ましてや佐谷さんという難易度の高い相手を前に、では遠慮なくと心穏やかに食事なんて出来るわけないじゃないか。
さっきまで一人で食べていた気楽さが消えて、妙な居心地の悪さが広がっていく。
自分に構わず全部食べろと言われても、なんだかとても気まずい。他の人なら特に気にならないのに、彼が相手だと物を食べているところを観察されるのが気まずくてたまらない。
彼の前で食事をするのはまだ数えるほどしかなかった。出版社に出向いた時にたまたま編集長に誘われ一緒に行ったことが一回。宮部さんから食事の誘いを受けて一対一かと思って行ったら彼も一緒だったことが一回。年末の忘年会のようなパーティに呼ばれ、軽食を適当に摘んでいるところに彼が声を掛けてきたことが一回。珍しく彼が差し入れを持ってきて、和洋菓子やパンを口にしたことが数回。
さっきまであれだけ感じていたソースの味も今は全然分からなかった。キャベツやもやしのシャキシャキした食感も、まるで感覚がマヒしているように感じ取ることができない。
(罰ゲームだ……)
大した量を残していたわけでもないのに、完食までの時間が果てしなく長く感じた。最後の方は水で無理矢理流し込むように食べ、僕は彼の視線から逃げるように背を向けてシンクに立った。
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