第一部/担当編集×小説家⑦<1>

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出版社へ足を運ぶ際やちょっとした用事で仕事の関係者に会う際は、いつも必ずモスグリーンの眼鏡を選んでいた。雑誌の取材や対談などで写真を撮られる時も勿論仕事用だ。 プライベート用の眼鏡なんて、業界関係者にはほとんど見せたことがない。編集長や宮部さんの前でもかけたことがないくらいに。 仕事用の眼鏡は、僕にとっての仮面と同じだ。創り手のイメージは作品へも影響を及ぼす。『相楽樹月』という作家としてのキャラクターを必要以上に詮索されないようにする為、他人の手でイメージを壊されないようにする為に素顔に被った一つの仮面。 その仮面を付けている間は、僕であって僕自身ではない。『相楽樹月』という作家としての自分と、『相楽樹月』という個人としての自分。相手によってどちらの自分になればいいのか、どちらの自分であればその場に適しているのか、眼鏡は自分を偽り自分を守る為の欠かせない仮面だ。 (……だとすれば、今日の僕は仮面を付ける必要があるのだろうか) 自分へ問いかけを行いながら、これから会う相手の顔を思い浮かべた。 今日の予定は何の為のものなのか。その意味を改めて考えると、仮面を付ける必要性がどんどん薄れていくのを感じた。 ここで仮面を付けてしまったら、きっとそれは相手に対してとても不誠実なことになる。そして何よりも、これから自分がやろうとしていることに対しても大きな矛盾が生じてしまう。それは後に深い亀裂となって僕たちの間に走るようになり、今の状態より関係が良くなる機会はきっともう訪れない。 (そうだ、僕は……) テーブルに置いたペンケースに目をやった時、『相楽さん』と自分の名前を呼ぶ彼の声が聞こえた。 いつの間にこんなにも心を占める存在になったのだろう。 話をするのがあんなにも苦手で呼吸が詰まってしまうくらい緊張してばかりだったのに、今では毎週仕事を理由に会って話すのを楽しく思い、電話やメールで連絡を取るのも日常になって、もっと沢山のことを知りたいと思っている。 そして今日は、自分から佐谷さんに会う約束をした。
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